世界を動かす陰謀論やフェイクニュース

2020年7月17日、米Googleは新型コロナウイルスの陰謀論を唱える広告を禁止すると発表した。同21日には、Twitter社が陰謀論を唱える集団「QAnon(Qアノン)」に関する投稿で同社のポリシーに違反したアカウントを恒久的に停止すると発表した。

この集団は一部のグローバリストらによって構成される「ディープステート」(影の政府)がトランプ大統領を失脚させる陰謀を画策しているなどと主張していることで知られる。コロナ禍でオンライン上における陰謀論を規制する動きが相次いだのは偶然ではない。コロナ禍によって陰謀論はより深刻なレベルで世界中に影響を与えるようになったからだ。

陰謀論と聞けば、何か特別なもの。頭のおかしな人々が信じる、取るに足りないデマ。一般的にそういった印象を抱きやすいかもしれないが、実はそんなことはまったくない。わたしたちが日々マスコミなどからニュースを得て、その裏にある思惑や意図を推測する余地がある場合、そこには「誰かが陰謀を企んだ」という発想が入り込みやすい。

災害のあとに必ず起こる陰謀論

東日本大震災が地震兵器によるものだったというのが典型だ。大陸プレートで核爆発を起こし、人工的に巨大地震を発生させ、日本に壊滅的な被害をもたらしたというものであり、米国とイスラエルによる「人工地震テロ」など諸説ある。

1995年の阪神・淡路大震災でも同様の陰謀論が囁かれたが、地震の原因を人為的なものとみなす心性は昔からあった。関東大震災(1923年)の時に「この地震は、こんど西洋で地震を起こす機械を発明して、日本を真っ先にやっつけようとしたんだっていうことですが」と主張する者がいたと記録されている(今井清一編『日本の百年6 震災にゆらぐ』ちくま学芸文庫)。

しかし現在の状況と少し異なるのは、陰謀論が日常的に浸透してきていることだ。東日本大震災とそれに伴う原発事故が実質的に「何者かによる仕業だった」と信じている者は未だに多く、振り返ってみると3.11がある種の分岐点であったことは間違いないように思われる。

田中聡は、『陰謀論の正体!』(幻冬舎新書)の中で「東日本大震災を境に、日本での陰謀論のありようは大きく変わったように思われる」とし、「それは、陰謀論的な考え方を受け容れる人が急増し、かつ陰謀に対して切実な危機感を持たれるようになったこと」だと述べていることが象徴的だ。

そのなかには、日本の政治や経済がどのような仕組みで「やつら」にコントロールされ、搾取されているかを情動的に訴えるものも多い。たとえば植民地支配の常套手段だとされる「マイノリティを利用しての支配」が日本でも行われているとされ、在日韓国・朝鮮人、被差別部落民がCIA(中央情報局)やユダヤ勢力の手先として行動しているとされたりするのである。暴力団や政界はもとより、マスコミ、市民運動など、みな彼らに半ば支配されているとされる。その種の陰謀論が、愛国主義的なそぶりを愛する人たちに好まれることは言うまでもない。(同書)

ここにはもちろん、それまであまり自覚されていなかった日本の凋落が決定的な形で顕在化した事実を、「何者かによる仕業だった」と凋落を謀った主体を後付け的に捏造することによって、自分たちを「被害者」の側に置いて免罪したいとする無意識が働いたことが容易に想像できる。

今回のコロナ禍にしても、コロナ禍以前から日本が経済的に右肩下がりで先がないことは明白であり、例えウイルス禍が人為的なものであったとしても日本の凋落は変わらない。だが、陰謀論は外部にある不可視の権力機構が「それ」を企図したという免罪符をくれるというわけである。

社会的な孤立が陰謀論を生み出す

このような前提を踏まえた上で、とりわけ重視しなければならない論点は、コミュニティの崩壊による社会的な孤立の増大が、陰謀論的なコミュニケーションの拡大に寄与している面があることだ。

これは先に述べたように、3.11が「新しい社会不安の時代」の幕開けであったことに関連する。コミュニティの崩壊は、何十年もの期間、複合的な要因によってもたらされたものだが、その「負荷」が3.11の混乱状況によってより身近なものとして振りかかったのである。

あの時分「絆」への回帰が声高に叫ばれたのは、すでに「絆」がノスタルジーの対象になりつつあったからに過ぎない。寄る辺ない人々はネット空間を浮遊したり、たむろしたりするしかなく、もはや「絆」は限られた人々にのみ開かれた希少財だったのである。社会関係から切り離され、安らげる場所がない者ほど、見知らぬ他者が提供する「物語」や、現在の地位を逆転させる思考の魔術に傾倒しやすくなる。これは自尊心を守るためのいわば「まっとうな適応」でもある。

陰謀論に飛びつく人間の真理

米科学雑誌「ディスカバー」は、陰謀論を唱えやすい集団には、「社会経済的地位の低い人々、排除されている人々、人生が手に負えないと感じている人々が含まれる」と指摘し、これらの集団の数がコロナ禍が始まって以降増加しているという。

ここで紹介されている社会心理学者ダニエル・ジョリーの分析は特筆に値する。

彼は、陰謀論が社会的排除に対する「完璧な解毒剤」として機能していると看破するのだ。つまり、自分たちは他の真実を知らない人々と違って、「裏で何が起こっているかをちゃんと理解している」、換言すれば「特別な情報にアクセスできている自分たちは特別(これはかなり単純なトートロジーなのだが)だと思うことによって」自尊心を救済するのである。

しかしこれは、情報格差による地位の優越と考えれば、何ら珍しい話ではない。AはBの浮気を知っているが、CはBの浮気を知らないということが、仮にそれが嘘の情報であったとしても「知っている」という優越性、それに基づくコントロールの可能性を握っていることこそが自尊心の一部に与するからだ。これは究極的には貧富の差は関係がない。

「コロナはフェイクだ」「新型コロナウイルスは存在しない」ーーこのような物言いに飛び付くのは、コロナ禍で恐慌に陥った世界全体を嘲笑うことができる地位へと素早く上昇し、悪意のある何者かによる陰謀というハリウッド映画さながらのドラマティックな物語性を生きることができるからである。

これは社会的な孤立や慢性的な不全感にさいなまれている者にとっては福音であり、現状の生活では得られない「代替的な地位」が大きな魅力となっている。信頼できる対人ネットワークの少なさもこれを後押しするだろう。周囲に感染者や医療従事者がいなければ、コロナはますますメディアの産物でしかなくなり、その実在性をいかようにも加工することが可能になる。

しかも、これが反ワクチンなどの言説と結び付いていると厄介だ。コロナ対策の足を引っ張る懸念すら否めない。マイクロソフト創業者のビル・ゲイツが、新型コロナウイルスのワクチン接種で、マイクロチップを埋め込もうとしているといった陰謀論があった。製薬会社絡みの陰謀論も多く、ワクチンを巡って一波乱ありそうである。

増幅する孤立が敷居を下げる

いずれにしても、人と人が容易につながる場の消失、仲間と呼べる関係性の減少を意味する社会的な孤立は、世界各国で増加し続けておりコロナ禍でさらに拍車が掛かっている。そのような状況下で単にインフォデミック(情報の感染症的流行)による一連の騒動だけでなく、陰謀論的な発想に対する敷居が相当下がってきているといえる。

これはネットパトロールといった小手先の対処法ではどうしようもない問題であり、行き過ぎたグローバル化や国家など公的機関への信頼性の失墜とも密接につながっており、わたしたちがコロナ後の世界で向き合わなければならない難題の1つでもあるのだ。

文:真鍋厚