新型コロナウイルスで経済的影響を最も受けている業界の1つが旅行業だ。最近は「存続の危機にさらされる業界」とさえいわれている。世界旅行ツーリズム協議会(WTTC)が6月上旬に発表した予測では、世界的に旅行者数は73%減少し、GDP損失額は5兆5,430億USドル(約584兆円)に上るという。
さまざまな業界が抱える、全世界的な課題に取り組む世界経済フォーラム(WEF)は、新型コロナウイルスが経済に与える影響を最低限に抑えるための活動を行っている。WEFは、旅行業界の立て直しに不可欠なのは、「安心感」だと指摘する。旅行におけるあらゆる場面で顧客の健康に配慮することが業界再生には必要だというのだ。
WEFは、人々の不安を取り除くことが最優先であると指摘する。特にワクチンが開発されるまで、旅行者一人ひとりの健康上のリスクを確認・把握し、コロナ感染症の感染経路である「接触」を抑え、その危険性が高まる人ごみを作らないよう心がける必要がある。顧客をウイルスから守るためには生体認証技術などのデジタル・テクノロジーが適しているというのだ。
ワクチンが行きわたるまでは、「デジタル・ヘルス・パスポート」
国際航空運送協会(IATA)の調査によると、目に見える除菌作業、スクリーニング、マスクなどの対策は、ポストコロナに旅行を計画する人の安心感を高める効果があるという。
WEFは、ワクチンが開発されるまでは、各人の健康状態を確認し、感染の危険性がないかの評価を行うことに焦点を当てるべきとアドバイスする。それを反映したのが、「デジタル・ヘルス・パスポート」。旅行会社や航空会社が、顧客の依頼を受け、年齢や基礎疾患、旅行歴などの個人情報をもとに、リスク・プロファイルを作成するというものだ。
旅行者の健康に対するルールや、どの程度、衛生上の安全性が確保できていれば、国境を再開するのかなどの国際的な基準を設けようという試みはまだ始まったばかり。現在行われている対策は、エミレーツ航空やルフトハンザ航空によるPCR検査の実施、多くの空港でのサーマルカメラの使用、追跡・接触確認・健康管理などのアプリの導入などに留まっている。
感染を避けるための得策が「タッチレス」
現在のところ、新型コロナウイルスの感染経路は飛沫感染か、接触感染と考えられている。どちらであっても、今後の旅の理想的な形は「何にも触らない=タッチレス」に尽きるといえそうだ。
海外旅行では航空機を利用することが多いが、どんなに空港内を隅々まで念入りに掃除したとしても、従来の旅の形態では、チェックインから搭乗に至るまで、何にも触れずに済ませることは不可能だ。つまり旅には常に感染の危険がつきまとうということだ。当然のことながら、航空会社や空港のスタッフにとっては、職場で感染する可能性が高いということになる。
そこで普及が見込まれるのが、デジタル・アイデンティティ・ソリューションだ。生体認証技術を用い、「タッチレス」で自分の身元証明を行うことができる。諸手続きをコンタクトレスな指紋認証、虹彩認証、顔認証システムなどで行う。さらに、タッチレス・データ入力のための技術も開発されており、ジェスチャー・コントロール、タッチレス・ドキュメント・スキャン、音声コマンドなどがテスト段階に入っているという。
旅客激増にそなえるためのノウハウを、ポストコロナに生かす
WEFはデジタル・アイデンティティ・ソリューションを取り入れた、「ノウン・トラベラー・デジタル・アイデンティティ(KTDI)」というコンセプトを2018年に発表している。KTDIはパスポートなどの身分証明書なしに、海外旅行者自身がデジタル・アイデンティティを管理するためのプラットフォームだ。出入国審査や航空機利用など、身分証明を求められた際に、その情報を共有すると自らが決めた官庁や企業などだけに事前に情報を開示する。KTDIには生体認証技術のほか、分散型台帳技術、暗号化技術も用いられている。
2037年までに航空旅客数は現在の2倍の82億人にまで伸びると国際航空運送協会(IATA)では予想しており、KTDIは当初、空港内での諸手続きに取られる時間を短縮するために開発された。しかし、ポストコロナにおける海外旅行に適用しても、人ごみを作らずに入国審査などを行うことができるため、注目されている。身元の証明だけでなく、予防接種や健康状態などの情報を事前に入国管理局に開示しておくことで、旅行者は列で待つことなく、審査を済ませることができる。
生体認証技術とスマホで、「タッチレス」を実現
WEF同様の「タッチレス」のコンセプトを、実現しつつある民間企業も出てきた。航空コンサルタントを世界規模で行うシンプリフライングと、空港を中心とした空の旅をスムーズで快適にするためのテクノロジーを開発するエレニウム・オートメーションだ。シンプリフライングは6月に「ライズ・オブ・タッチレストラベル」という報告書を発表している。それによれば、将来、空港内では何にも触れずに、搭乗機に乗り込むことになるという。
ここでも活用されているのは生体認証技術と、スマホだ。アプリの「ボイジャー」は、エレニウム・オートメ―ションが、アラブ首長国連邦(UAE)のアブダビを拠点とするエティハド航空や、アマゾンのクラウドウェブ・サービスであるアマゾン・ウェブ・サービスと協力して開発した。空港に到着する前に、乗客は生体認証データをアップロードしておき、ビザやパスポートのチェックを簡便化する。健康チェックの結果をそこに加えることも可能だ。
手荷物の預け入れの際にも、生体認証が役に立つ。エレニウム・オートメ―ションの「バッグDNA」であれば、バッグタッグの必要なしに3秒で荷物を認識し、預け入れは完了する。
空港内でのショッピングも同様だ。乗客は生体認証データをもとに本人であるかどうかを確認してもらえるので、搭乗券のスキャンなしに買い物ができる。バーチャル・ショッピング・ウォールを利用しての買い物や、個々のニーズに合ったショッピングを経験することが可能だ。
搭乗に際しては、航空会社側が各乗客に通知を送り、そのタイミングを知らせる。ロンドン・ガトウィック空港で試験的に用いられているそうだ。オープンゲート方式のゲートでは、スマホのアプリを利用して、生体認証搭乗券と、事前にチェックを済ませたパスポートによって迅速で安全に搭乗手続きを行うことができる。
搭乗ゲートに進むにあたって、スマホが使えない人やスマホを持っていない人には、生体認証識別機能が付いたキオスク端末で健康状態のチェックを乗客自身が行う。音声作動キオスクなので、タッチレスで済む。エレニウム・オートメーションが開発し、UAEのアブダビ国際空港で試験操業されている。
生体認証技術のほかにもさまざまなテクノロジーを取り入れることで、「タッチレス」は多岐にわたる分野で応用が可能だ。UAEのドバイ国際空港や米国のラスベガス・マッカラン国際空港には、スマホのアプリを利用し、触れることなく、個人防護具(PPE)を購入できる自動販売機が設置されている。
セキュリティチェックの分野では指折りといわれる「ラピッドスキャン」を採用すれば、液体物やコンピュータなどをいちいちバッグから取り出すことなく、また係員もバッグに触れずに安全な荷物かどうかを確かめられる。
安全情報や機内誌などが入れられた、シートポケットはスクリーンが取って代わる。インフライトエンターテインメントシステムを手がけるPXComによるデジタル・テクノロジーで、ポケット内の情報をすべてスクリーン上で確認できるようにする。
人々は到着前に、入国審査を機中でスマホを使って済ませたり、預けた荷物が受け取り可能になった時点で通知してくれるアプリを利用する。これらを行っている例として、前者にはエア・カナダ、後者にはデルタ航空がある。
また機内の衛生管理を徹底するにあたり、トイレは重要な対象といえる。2016年にボーイングが開発・発表したものの、実装されたことがなかった技術が今、再評価されている。使用後に3秒間UVライトをトイレ全体に当て、99.99%の割合でバクテリアや細菌を殺菌消毒することができるというものだ。エミレーツ航空は、フライトによって、トイレ掃除を専門とするクルーを搭乗させ、定期的な掃除を行っている。これも、近い将来、ボーイングの技術をもって、「タッチレス」にとってかわられるかもしれない。
新型コロナウイルスのパンデミックに押され、私たちの旅は、デジタル・テクノロジーを用いた、「タッチレス」化に進んでいる。「ライズ・オブ・タッチレストラベル」は、旅の将来を予測しているわけではないそうだ。未来めいて感じられるかもしれないが、「タッチレス」な旅は一部すでに現実となっている。ほかの技術も試行の段階まで進んでいる。同報告書は、世界中の空港や航空会社が実際に行うべき、また行わなくてはいけないことなのだと、シンプリフライングは強調している。
文:クローディアー真理
編集:岡徳之(Livit)