「アンダーグラウンド=アングラ」と聞いて思い浮かべるのはどのような活動だろうか? 秘密基地で繰り広げられる地下の政治活動? クレイジーな人たちが集まるニッチなサブカルチャーシーン?
世界的なデザイナーのネリー・ベン・ヘイオン博士が立ち上げた「アンダーグラウンド大学」は、どちらの要素も含みながら、もっと多元的で型にはまらない自由な大学だ。その思想の根底には、システムを無批判に受け入れることへの危機感がある。
アムステルダムとロンドンを拠点に展開されるこのオルタナティブ大学は、どのような教育機関なのだろうか?
ナイトクラブの地下室は「狭き門」
アムステルダムのナイトクラブの地下室――狭く暗い空間にろうそくの明かりがゆらぎ、大きな髪型とキラキラのファッションに身を固めた司会者が、前方に立ってマイクで自己紹介。それはまるでナイトクラブの1シーンのようだが、これはアンダーグラウンド大学(以下、アングラ大学)で展開されるパネルディスカッションの光景だ。世界中から集まった若者たちが、暗闇の中、クスクスを食べながら「食べ物とセレモニーの関係とは?」「食べ物と個人のアイデンティティについて」など、食べ物に関する議論を交わしている。
アングラ大学は「自由で、多元的で、国境のない」大学として2017年2月、ロンドンとアムステルダムを拠点に設立された。学費はタダ。政府の補助金などは受けず、授業料は主に寄付金で賄われている。次世代の活動家に無料の教育を提供することで、多元的な思考能力を育成することを目指している。
コース内容は、哲学、経験、音楽、演劇、映画、社会的行動、社会的夢想に焦点を当てたもので、文化の形成や知識の商品化に対抗するような、型破りな研究をサポートしている。ベン・ヘイオン氏が主催するこの教育事業には、世界中のデザイナーや音楽家、芸術家、政治家、科学者、哲学者が参与。有名な哲学者のノーム・チョムスキー氏や文化人類学者のアルジュン・アパデュライ氏なども名を連ねている。
また、アムステルダムの「サンドバーグ・インスティテュート」(ヘリット・リートフェルト・アカデミーの大学院)をはじめ、アメリカのバード大学、グルジアのトビリシ大学など、世界の教育機関とも提携を進めている。
2017年に創設された「デザイン・オブ・エクスペリエンス(経験のデザイン)」のマスターコースは、「現状をかき乱し、これまでの考え方を覆し、もう一度私たちに考えさせる経験」を実践・研究するコースで、ソーシャルネットワークで生徒が募集され、45カ国から250人が応募した。この中から合格したのはわずか15人。さらに、2019年に卒業までこぎつけたのは、わずか2人だったという。
新型コロナウイルスの影響で、2020年3月には授業やワークショップの場がナイトクラブの地下からオンラインに移行したが、ぶっ飛んだ研究内容や、型破りな授業スタイルは相変わらず。
「If I can’t dance I don’t want to be part of your revolution(踊れないなら、あなたの革命に参加したくない)」というテーマの授業では、「政治家はミュージシャンやマジシャン、ドラッグクイーンやボクサーから何を学べるか?」「新しい政治システムや国家がフリージャズから生まれるか?」といった難題が提供されている。
オンラインの発表風景の動画を見ると、各生徒がベン・ヘイオン氏にプレゼンする合間、ある生徒が音楽をかけると全員が踊り出す場面もあり、訳の分からない自由な展開に「さすが……」という印象を抱く。
日本の着物プリントから宇宙科学まで
この型破りな大学の創始者であるベン・ヘイオン氏自身、とてもユニークな存在だ。1985年、南フランスの政治的な家庭に生まれ、小さい頃は母方の祖父の話を聞いて育ったという。その祖父はアルメニア人大虐殺を逃れて、政治亡命者としてアルメニアからフランスに渡り、後にヴァランスの副市長となった。父方の家族は、フランスの植民地であったアルジェリアから来たが、アルジェリアの独立戦争におけるフランスの関与はあまり語られず、父方の家族も沈黙を守っていたという。
ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートでデザイン・インタラクションのマスターを終了。ロイヤル・ホロウェイ大学では、地理学と政治哲学の博士号を取得した。ほかにも、科学、医学、絵画、応用芸術や日本の着物デザインなども学んだ経験がある。彼女の興味の対象は非常に広範で、そのプロジェクトも型破りなスケールの大きさだ。
特に有名なのは、2013年8月に組織された「国際スペースオーケストラ(ISO)」。NASA(アメリカ航空宇宙局)の「エイムズ研究センター」の宇宙科学者から成るオーケストラで、「宇宙科学を私たちの創造的ニーズに適合させるため」「未来の宇宙科学と人間関係を想像して、混乱させるため」の試みだ。演奏会が開かれているほか、ISOの演奏を録音したCDが宇宙船に持ち込まれ、宇宙飛行士らとともに地球軌道を一緒に回っているという。
「生命、海、そしてスペースバイキング(The Life, the Sea, and the Space Viking)」は、11㎞の深海探索から始まり、太陽系のいちばん遠い地点で終わる映像プロジェクト。天文学やテラフォーミング(惑星を地球環境に近づけること)、極限環境微生物の研究を統合して、私たちの「生物学的考古学」を解明したり、「地球外知性(SETI)」や人類が生存する場所、宇宙植民地化などについての問いを投げかけたりしている。
彼女の作品は多くの賞を受賞し、国際的に高い評価を得ている。また、こうした広範な活動を反映し、彼女はデザイナーとしての肩書だけでなく、データ転送サイトのWe Transfer社の「ヘッド・オブ・エクスペリエンス(経験責任者)」、SETI(地球外知性探索機関)の「経験デザイナー」、国際宇宙連盟の「宇宙アウトリーチおよび教育メンバー」など、多くのユニークな肩書を持つ。
システムへの批判的態度が生んだオルタナティブ教育
ベン・ヘイオン氏の思想に最も影響を与えたのは、アメリカの政治思想家、ハンナ・アーレント氏だ。ドイツに生まれたユダヤ人で、まずはパリ、その後アメリカに亡命し、ナチズムやスターリニズムなど全体主義国家の歴史的位置と意味の分析をし、現代社会の精神的危機を考察した。
有名なのは「悪の陳腐さ(Banality of evil)」という彼女の言葉。これは、ナチスによるユダヤ人大虐殺計画で主導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンの裁判をまとめた著書『エルサレムのアイヒマン』の副題に使われたものだ。同書ではアイヒマンが極悪人だったわけではなく、ナチスのシステムに乗ってまじめに出世を目指した結果、人類史上例をみない悪事に発展したということが観察・分析されている。つまり、現行のシステムについて批判的な態度を持たず、無批判にそれを受け入れてしまうことが悪となる危険性を持つことを指摘しているのだ。
「私はアーレントの研究を自分の研究のスタートポイントにして、彼女の思想を基本に、その方法を発展させようとしている」と、ベン・ヘイオン氏はベルギーのアートメディア『Rekto Verso』とのインタビューで語っている。そして、研究の際にはいつもアーレント氏と会話をしているのだという。「もちろん、彼女は答えてくれないから、会話は一方的。でも、彼女の生徒だったアルジュン・アパデュライ氏やレオン・ボットスタイン氏とは対話をする」そうだ。
アングラ大学設立にあたっては、かなり激しい批判も受けた。「アングラ大学のような組織が公的教育を終わらせる」という危惧の声も上がったという。しかし、彼女は現状のシステムにも疑問を呈し、「デモクラシーや協和的サービスとしての政府の支援を受けた教育はなければならないが、いまや政府が完全に民主的で協和的なのかが信じられないのが問題。自分のポリシーを決める、オルタナティブ教育を提供できなければならない」と、毅然とした態度を示している。
現行のシステムを批判的に見つめるには、形式から逸脱する姿勢や多元的なものの捉え方が必要。アングラ大学の根底には、「悪の陳腐さ」への警鐘が響いている。
文:山本直子
企画・編集:岡徳之(Livit)