SNS誹謗中傷における「承認欲求」

SNS誹謗中傷問題の記事を読んでいて、いくつか、「承認欲求」という言葉の使い方に引っかかるものを見た。その多くは専門的な議論ではなく、人間関係トラブルについて解説したり、人間関係やビジネスを上手に切り盛りする知恵を提供する記事といったものだ。

もともと、この言葉は心理学用語だったものが、多文化社会における「承認の政治」(politics of recognition)のように、政治学や法学の分野でも使われる用語になった。カナダの政治学者チャールズ・テイラー(Charles Taylor)の多文化主義理論の中で使われたことがとくに有名である。筆者は「承認」という言葉を、このように政治的・社会的な文脈の中で語られるようになった言葉として使っていることをお断りしておく。

心理学の領域でも、政治学の領域でも、この言葉自体は、良いものでも悪いものでもない。人間個人の内面や人間社会を成立させている不可欠のものとして、解明の対象となってきた。それは名誉心といった精神的な満足感につながっている場合もあるが、カナダなどでは、極寒の地域に住む先住民族の人々が正しく「承認」されず電気・ガスなどのインフラが届かなかったら、生命の危険にも直面することになる。

揶揄されるから「悪目立ちしたくない」

もともとは専門用語だったこの言葉が、SNS文化が広まるにつれて、幅広い層の人々から日常の言葉として語られるようになった。その流れの中で、この言葉がとくにマイナスの意味合いで語られるようになっていった。SNS特有の現象として注目された「バイトテロ」のように、迷惑行為や所属先のコンプライアンスを踏み外す行為をあえて写真に撮ってSNSにアップし炎上させる行為について、「歪んだ承認欲求」「歯止めを失った承認欲求」といった説明が多く行われたことを思い浮かべると、わかりやすい。

同時に、人目につくこと、目立つことそのものを「承認欲求」と呼んで揶揄する空気も顕著になってきた。このこと自体はもともと「目立とう根性」といった言い方で言われてきた事柄で、目立つ人間がそのように揶揄されることはいまに始まったことではない。

しかし現在の「悪目立ちしなくない」という萎縮の感覚が、多くの知的で良識的な人々の間で、これまでにないかたちで広まっているように見えることに、筆者は憂慮を感じている。

法律から見た「悪ふざけ」

「バイトテロ」に近い「肝試し」的な悪ふざけは、ずっと以前から社会にはあった。筆者が身近に見ていた中では大学対抗の野球の試合が終わると、飲み会に繰り出した学生たちが新宿あたりの噴水池に飛び込むところが見物できた。これも街のほうでは迷惑行為・危険行為として困っており禁止していたわけだから、見物人の喝さいを浴びたくて池に飛び込む学生たちは、承認欲求にかられたやんちゃ者、だったわけである。

筆者の専門分野は法学(とくに憲法)なので、このとき池に飛び込んだり、バイト先のコンプライアンスを踏み外したりする人々の”内心”のことは問題としない。行われた行為が、他者の利益を害しているならアウト、また、他者への侵害はなかったとしても生命健康への危険があるため強制的にでも止めるべき理由があるときはアウト、と考える。

飲食店の冷蔵庫で食品で遊ぶ行為は、店とその顧客の両方の利益を害するので、法的に見てもアウトだ。酒に酔って池に飛び込む行為は、管理者に無用の仕事を増やす点でも迷惑行為だろうと思うが、むしろ酒の一気飲みと同じく、当人にとって危険な行為だという点からも、いまの筆者なら止めるだろう。

承認欲求が支える向上心

この手の行為を「悪目立ち」と呼び、「コントロールできなくなっている承認欲求」とみて「コントロールの必要」を解くことについては、筆者も賛成である。しかし、いま、それよりも深刻なこととして気になるのは、SNS上で突出している誹謗中傷を「承認欲求のなせるわざ」と見て、承認欲求そのものを悪いもの、厄介者、と見る傾向が出てきたことである。

正義感の強い人ほど、悪は元から断ちたい、という気持ちになる。しかしSNS誹謗中傷の場合、元を探ろうとすると、人の心の微妙な闇にまで入り込むことになる。心理学者やカウンセラーはそこを解明するのが仕事だが、法律論がここに寄り添いすぎると、角を矯めて牛を殺す結果になりかねない。言論空間を守るために必要な法的対処と、法が踏み込まなくていい領域があることについて、注意をしておきたい。

承認欲求がSNS被害を生み出す、というのはたしかに真実だろう。しかし承認欲求そのものを悪とみることには、逆に危険である。「他者を傷つけない範囲でSNSを楽しもう」と自分を律することも、承認欲求に支えられないと、なかなかできないことだからである。

「私は他者を傷つけて楽しむような真似はしない人間だ」と自己認識していたい、そして「そのように社会から認められたい」という思いも、承認欲求である。トイレや食事に関するマナーを覚えたのも、幼少のころ、親から承認してもらうためだったはずだ。

心理学の世界でも言われているように、承認欲求は、向上心や社会的つながりや、生きる意欲とも深く結びついている。認められたい、一目置かれたい、あるいは自分の能力を発揮できる場が欲しい、という思いは、承認欲求に支えられていることが圧倒的に多いからである。

この承認欲求そのものを捨ててしまったら、むしろ良心の呵責なく他者を傷つけたり、自己や幼児をネグレクトしてしまう可能性のほうが高くなるだろう。他者や自己から承認されることをまったく望まずに他者や自己を大切にできる人もいるとは思うが、それは大変に高い悟りに達した少数の人だけだろう。あるいは、そうした人も、神とか、自分の記憶の中の誰かを承認者として支えにしている可能性が高い。

悪目立ちしたくないは「萎縮」

法学の領域の言葉でいうならば、自己を律する、という意味の「自律」は、承認欲求に支えられていることが圧倒的に多い。どんなにムカッとくることがあっても相手を殺傷してはいけないとか、借金は時間がかかっても返そうとか、対価に見合うだけの仕事をきちんとやろうとか。そこに法律が、外側から添え木として役立っていることも多い。「それは法に反する」「それは犯罪になる」「それはまずいからやめておこう」というふうに。刑法の世界では、こうしたことを「抑止」と呼んでいる。法律は、警察や裁判所によって強制される以前に、まずは人の承認欲求に訴えかけていると言ってもいい。

SNS上で、目立つ人物が攻撃的な揶揄冷笑や批判にさらされることが多くなるにつれ、知的で良識的な人が「悪目立ちしたくない」と言う言葉を使うようになり、不用意な発言をしない賢さのほうを尊ぶようになってきている。そうした若い人々から見れば、筆者は、思慮のない軽率な目立ちたがり屋として敬遠の対象ともなる。これが「表現の自由」の理論で言われる「萎縮」の一つの形である。

「自由」を強制することは矛盾になってしまうからできないので、「萎縮するな」と言うことはできず、萎縮するのも一人ひとりの自由ではある。しかし、社会の多数の人がこのように賢くなってしまったら、社会は長いものに巻かれるばかりになってしまい、民主主義を名実ともに手放すことになりかねない。だから、世の中には思慮のない愚か者も、一定割合、必要なのである。

目立ちしたくないけど発信したい匿名性

SNS誹謗中傷問題では、「匿名性」というものも話題となっている。匿名を隠れ蓑にして、人を傷つけることを言いたい放題に言える空間がSNSだ、ということで、いま、SNS上の匿名性が問題視されているのである。しかし、ここで匿名の自由を全員からはぎ取ってしまうと、どうなるだろうか。

先に触れた、「悪目立ちしたくない」人々の中に、「けれどもせめて、自分のアイデンティティがわからないようなかたちで、ネットゲームに参加したり、ときには社会に問いを発したり、自分が苦しい思いをしているということを発信したりしたい」と考えている人は少なくないだろう。むしろ、自分の暴力性をむき出しにして激しい誹謗中傷を行う人々より、数としてはそちらの人々のほうが多数ではないか。

とすると、少数の突出した攻撃的発信者のために匿名性自体を悪と見て全員からはぎ取るような策をとってしまうと、むしろ「目立つこと」を恐れている心優しく賢い人々が、ますます公共空間で発言することをしなくなっている恐れがある。匿名性は、目立ちたくない、しかし社会に対して言いたいことや知ってほしい事柄がある、という人々の承認欲求の、せめてもの拠り所でもあることを、無視してはならないだろう。

コロナの時代の承認欲求

本来は人の向上心や社会参加意識を支えているはずの承認欲求が、いま、その副作用の面に耳目が集まり、悪事を生み出す厄介者として見られる傾向が強まっている。この流れに乗って、この欲求そのものが社会的にも、自分の利害にとってもマイナスだ、という「空気」が広がっていけば、社会は衰退していくだろう。

とりわけ、コロナ感染防止のために、漫然と集まることをしなくなった社会では、ネットなどを使って自分の意志で人とつながらないと、歯止めなく孤立することができてしまう。そうした孤立への歯止めとなるのが、「私がここに生きていることを知ってほしい」という承認欲求の声である。コロナの時代の中では、私たちはむしろ自分と他者の承認欲求を否定しないこと、適切に出していくことが、生きるために必要になっている。

大切なのは、《誰に、どういう人間として承認されたいか》、ということを、各自が自問し、そのイメージを持つことだろう。それを「自尊心」と呼んでもいいだろうし、とくに公共の言論空間でそれを出していく作法の部分をとらえて「公共的な徳」と呼んでもいいかもしれない。

私たちが生きる上で不可欠のエネルギー源として、「承認」と「承認欲求」というものは必ず働いている。むしろ適切に承認されていないと感じた人たちが怒りを込めてその不当性を叫んでいるのが、アメリカのBLM(Black Lives Matter)運動だろう。

筆者は、匿名で他者を揶揄したり攻撃したりせずにいられない人々と話す機会に恵まれていないので、これは仮説にすぎないが、SNS上の誹謗中傷発言者の中には、自分が適切に承認されていないことの焦燥感を感じている人がいる可能性もある。

承認を求める叫び声の出し方がわかっていない、トレーニングをしたことがないために、そのように他者に八つ当たりして負のエネルギーをぶつけるしか方法がわからなくなっている人々もいるのではないか。

そのエネルギーは、それ自体を否定するべきものではなく、どうやって出していくか、どういう声として出していったらいいのか、一人ひとりがそのスキル(作法)を学んでいくことが必要なことだろう。筆者には、ここをどう乗り切るかが日本社会がコロナの痛手から回復するか、このまま衰退していくかの分かれ道になるような気がしてならない。

文:志田陽子