デザインを通じて暮らしや社会をよりよくしていくために、総合的なデザイン評価・推奨の仕組みとして、1957年に創設されたグッドデザイン賞。
多種多様な受賞作のなかでも、特に近年、ビジネスをはじめとして、社会に存在する課題をデザインで解決しようとする取り組みに注目が集まっている。この連載では、日本、そして世界が抱える課題の解決に貢献しているグッドデザイン賞受賞作と、それに関わる人々を取り上げ、どんな人が、どのようにして社会を「グッド」にするデザインを生み出したのかを紹介していく。
今回紹介する染谷拓郎さんが手掛けた「箱根本箱※1」は、2019年度グッドデザイン・ベスト100に選ばれた宿泊施設。日本出版販売株式会社に所属し、同社のブックディレクションブランド「YOURS BOOK STORE」(ユアーズブックストア)プランニングディレクターを務める染谷さんに、なぜ出版取次業界の最大手がホテル経営を始めたのか、そして苦境の続く出版業界の課題を解決するために取り組んでいる「本のある場所を豊かにする」取り組みについて伺った。
保養所から生まれた「書店付きライフスタイルホテル」
―箱根本箱とは不思議な名前ですが、一言で説明するとどういうものなのでしょうか。
染谷:機能的には、一万二千冊の本があり、2種類の温泉に入れて、ミラノで修行したシェフの美味しい料理が食べられるホテルで、意味的には、1泊2日の20時間の滞在を通して、本を媒介に豊かな時間を体感できる場所です。ここにある本はすべて読むことができますし、購入することもできます。総称して「書店付きライフスタイルホテル」と呼んでいます。
染谷:滞在中は、ぶつ切りではなくまとまった時間を過ごすことができるので、普段考えていなかったことに気づいたり、ゆったりした気持ちを取り戻すことができると思います。
―「書店付きライフスタイルホテル」というコンセプトが、どのようにして生まれたのか教えてください。
染谷:元々会社の保養所だった施設を活用するというところから検討が始まり、新潟県の南魚沼で里山十帖という宿泊施設を手掛けている株式会社自遊人さんに、アイデアを提案していただきました。箱根本箱では、代表の岩佐十良(いわさとおる)さんを中心に、企画・プロデュースとホテルの運営をお願いしています。日本出版販売(以下日販)は本の選書などのブックディレクションと、事業全体の経営面を担当しています。
出版取次業界の最大手が、ホテル経営をはじめた理由
―出版取次の会社である日販が、なぜホテルの経営に乗り出したのでしょうか。
染谷:日販は全国の出版社から本を仕入れて、書店やコンビニなどに本を卸す流通業務を担っています。本をいかに効率よくミスなく運ぶか、というのが今も昔も変わらないミッションなのですが、現状として、出版物全体の売上がここ15年でピーク時の半分ほどの規模になってしまったという事実があります。
そこで、既存事業だけではなく新たな事業をつくっていくために、2015年にリノベーショングループ(現リノベーション推進部)という部署ができました。部署の中に、ブックディレクション事業を行う新ブランド「YOURS BOOK STORE」を立ち上げて、書店をアップデートするほか、書店以外にも本のある場所をつくっていこうとしています。
箱根本箱はその一環で生まれたのですが、それ以外にも、例えば株式会社ファーストリテイリング様の社内ライブラリーの選書をしたり、元々あった書店をリノベーションして新たな書店ブランドをつくり上げるなどの活動をしています。
―箱根本箱と同じく2019年度のグッドデザイン賞を受賞した「文喫※2」もその流れにあるプロジェクトなのですね。
染谷:そうですね。文喫は、「本と出会うための本屋」というコンセプトを掲げていて、入場料のある書店です。一日中滞在できて、コーヒーやお茶が飲み放題で、閲覧室、喫茶室も併設している、ある意味で書店の可能性を拡張する書店といえると思います。
空間設計で「居場所」をデザインする
―新規事業を推進する部署は2015年にできたということですが、箱根本箱のプロジェクトはいつ頃からスタートしたのでしょうか。
染谷:発足した年の夏から保養所活用の話し合いを始めて、2018年8月に完成しました。
―リノベーションとはいえ、3年がかりなのですね。
染谷:結構時間はかかりましたね。
―実際に施設を作り上げていく上で、宿泊者の体験を豊かなものにするために考慮した点はどのあたりですか。
染谷:クリエイティブディレクターの岩佐さんと、建築設計を手掛けた海法圭建築設計事務所さんが、“本棚に人が入り込めるようにする”など、空間のなかに「居場所」をどう設計するかについて、すばらしいアイデアをたくさん出してくれました。
染谷:そのほかにも、図面の広さと、実際にお客様が体感する広さの違いを意識したうえで、客室もあえてセットバックして、バルコニーを広く取ることで開放感を演出するなどの工夫もしています。
また、著名人の方が選書した本を紹介する「あの人の本箱」という企画も好評をいただいています。
―谷川俊太郎さんの作られた詩が飾ってある部屋も設けられていますね。
染谷:ぜひ谷川さんに参画してもらいたいと思って、お手紙を書いて依頼し、実現しました。人脈を辿ってもたどり着けない方に依頼する際は直接お手紙を出すようにしています。
―ホテル中においてある数多くの本も、さまざまなテーマに基づいて並べられていて、工夫を感じました。
染谷:選書については「衣・食・住・遊・休・知」というキーワードを決めてセレクトしていて、その中で具体的にどのような本をチョイスするのかは担当者個々人のセンスと売上データを参考にしています。ただ、この場所で「エクセル凄ワザ10」のような実用書は読まれないでしょうから、そういった、明らかに「日常に近すぎる」本は選ばないようにしています。
染谷:それから、本の管理そのものについていうと、オープン前に、盗難防止のためのセキュリティバーを設けるかどうかで議論しました。結論としては、最後まで気持ちのよい宿泊体験をデザインするという観点から、設置しないことになりました。
―細かいところまで検討を重ねているのですね。
染谷:細部が大事だと思います。ものを作るだけがデザインなのではなく、その背景や奥にあるもの、今だけではなく前や後を考えることが大切です。
―完成後のお客様の様子はどうですか。
染谷:思ったよりもずっとたくさんの本を読んでくださっていて、「寝ないで朝まで本を読んじゃいました」という感想を聞くこともあるくらいで、じっくり本を読むことのできる場所がこんなに求められていたんだな、と強く感じました。
よく本離れと言われていますが、これだけたくさんの優れたエンターテインメントが存在する中では、ある意味仕方がない部分はあります。ただ、本を読んだときにしかない体験や充足感はあると思うので、そういう本に出会えるための補助線を引くような場所を作ったり、面白さを打ち出していく必要はあると思っています。
フラットに選択肢の一つとして、「本って面白いよね」と言いたいです。
グッドデザイン賞は「印籠」として機能する
―グッドデザイン賞についてもお伺いしたいのですが、そもそも賞の存在自体は、ご存知だったでしょうか。
染谷:もちろん知ってはいましたが、いいプロダクトにもらえる賞という認識でしたし、こういうプロジェクトが受賞することは知りませんでした。
そんな中、岩佐さんたちが、ぜひ応募しましょう!とおっしゃってくれて、応募書類や審査なども自遊人さんに中心となって進めていただきました。
―受賞後の反響はいかがでしたか。
染谷:社外での反響はもちろん、社内でもこのプロジェクトへの見え方が変わったのが大きかったです。やはり第三者からの客観的な評価は説得力があるので、様々な場面で、印籠として機能してくれてありがたかったですね。
社としても対外的なブランディングにつながったと思います。
“なくても生きていけるもの”を通じて、気持ちがうれしくなる機会や場所をつくる
―プライベートでは、ギターを弾いたり、歌ったりする音楽活動もされていると伺いましたが、仕事に生かされている部分はあるのでしょうか。
染谷:そうですね。普段、利用を制限しているお子様も宿泊できて、家族で楽しめる「こども本箱」というイベントでは、私が弾き語りで“歌い聴かせ”をしています。
昨年の秋には、野外でキャンプをしながら音楽を聞いたり本を読んだりする「森の生活」というイベントを開催して、ブッキングも私が行いました。
家でビートルズやブルーハーツが流れているような家庭で育ったこともあって、昔から音楽や小説、映画が好きでした。小さいころから友だちに好きなものを紹介したり、今までやっていなかった遊びを作るのも好きで、誰かにいいものを知ってもらいたいという気持ちが今も続いているのだと思います。
―いま仕事をするうえで、大事にしていることはありますか。
染谷:自分が自分の仕事主になれるか、ということを意識しています。最近自分の中でようやくテーマが定まってきて、それは「“なくても生きていけるもの”を通じて、気持ちがうれしくなる機会や場所をつくる」ということです。本という生きるために必ずしもなくてもよいものを通して、みんながうれしくなる取り組みをしていきたいと思っています。
―最後に、YOURS BOOK STOREとしての今後の最新情報を教えてください。
染谷:7月下旬に、長野県の松本市で自遊人さんの手掛ける新しい宿泊施設のなかに、「松本本箱」ができるので、ブックディレクションで関わる予定です。
※1 箱根本箱
「本との出会い」「本のある暮らし」をテーマにしたブックホテル。「衣・食・住・遊・休・知」という6つのテーマを中心に、新刊と古書、洋書あわせて約1.2万冊の本が選書され、ラウンジやレストラン、ショップなどシームレスに「本のある暮らし」を提案している。
※2 文喫
文化を喫する、入場料のある本屋。人文科学や自然科学からデザイン・アートに至るまで約3万冊の書籍を販売。一人で本と向き合うための閲覧室や複数人で利用可能な研究室、小腹を満たすことができる喫茶室を併設している。エントランスでは約90種類の雑誌の販売も。
この記事はグッドデザイン賞事務局の公式noteからの寄稿記事になります 。