続報・新型コロナから回復した義父。本人の口から語られた体験と家族の「アフターコロナ」

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現在のオランダと、義父の様子

オランダ人の義父が新型コロナに感染し、入院中に執筆・公開した記事で発症までの経過と入院中の体験をお伝えさせていただいてから2か月が経過した。

現在オランダ国内では、4月前半をピークに日ごとの新型コロナウイルス陽性の診断を受けた新規患者数は右肩下がりに落ち着いてきている。最も新規患者数が多かったのは4月10日の1,335人、それに対して公開データ上最新の6月11日は164人で、政府の「インテリジェント・ロックダウン」は功を奏したとみていいようだ。

いまだ街中のいたるところで1.5mのソーシャル・ディスタンスが奨励されてはいるものの、6月1日をもって飲食店を含むほとんどのサービス業が営業を再開し、ミュージアムなどの文化施設も人数制限をかけながら徐々に再オープン。

なにより6月8日より国内の幼稚園・小学校が再び全日・通常通りのスケジュールを取り戻しており、ロックダウン中自宅勤務をしながら子どもの世話とリモート授業のサポートに追われて疲弊していた全国の保護者が息を吹き返しつつある。

オランダ国内の新規患者数の推移(Wikipediaより) 

多くのオランダ人にとって現在最大の関心事は、夏をどう過ごすか。

政府は安全のためにこの夏は旅行などを控えるように呼び掛けているが、もう正直ステイホームはうんざり、という風潮も強い。そもそも夏に天気が良くて食べ物がおいしい国(つまり、オランダ以外)にバカンスに行くことを1年の最大の楽しみにしているオランダ人は多く、お互いフライトやキャンプ場の最新情報を共有したり、旅行をあきらめて家の庭に大きなプールを購入したり、それが水不足を引き起こして自治体が給水量の制限をしたり、混乱と様子見の夏支度に忙しい。

さて、件の筆者の義父だが、4月の頭に無事退院し、その後2週間の自宅療養の期間も穏やかに過ごした。現在ほぼ発症前と同じ体調の中、医師に命じられたダイエットに精を出している(身長186cmで、120㎏あった体重がコロナ闘病で110㎏まで落ちたが、身体への負担を考慮してせめて二桁を保つよう指示された)。

以前と同じ生活を取り戻した…と言いたいところだが、人生はそう単純に進まなかった。彼の「アフターコロナ」は生活を一変させてしまっている。まずは彼の生活の劇的な変化の最も大きな要因となった、そして前回の記事や日常生活で最も多くの人に質問を受けた、義父と一緒に暮らしていた義母の様子からお伝えしたい。

うつ病を発症し入院中の義母

前回の記事の後、色々な人に「それで、一緒に生活していたお義母さんは大丈夫なの?」と尋ねられた。超濃厚接触者の義母はしかし、結局新型肺炎の発症には至らなかった。

キスやハグの習慣のある典型的オランダ人である夫婦のうち片方が、こんなに感染力の強いウイルスに感染したのにだ。入院までの2週間、彼を看病しながら同じベッドで寝起きしていた義母が「一切、何の症状もない」のは、喜ばしいことだがなんとも不思議だった。身内はおそらく彼女も無症状だっただけで感染はしていたのではないか、という理解で落ち着いている。

実際、義父の陽性が判明した時点で病院からは義母もウイルスを保持しているという前提のもとに行動するように申しつけられていた(オランダではウイルス検査を受けられるのは、症状のある本人に限定されている)。

バリバリの「濃厚接触者」だ (画像:コロナ専門家有志の会より)

一方彼女が「大丈夫」だったかといえば、実はちっとも大丈夫ではなかった。結論から言って彼女は、現在うつ病を発症して入院中である。

日本でも「コロナ鬱」というキーワードが一般化しつつあるようだ。どこにあるか分からないウイルスへの恐れ、様々なことが普段通りに行かないことで自覚があろうがなかろうが蓄積していくフラストレーションや疲労、先行きが読めない不安、社会との接触が減ることで感じる孤独感など、現在の状況には人の心の負担になる要因が満載だ。

義母のケースはそこに、非常に仲が良く頼りにしていた夫を失う恐怖まで降ってきたのだから、調子を崩しても不思議はなかったのかもしれない。しかも濃厚接触者として隔離期間は買い物に行くこともできず、それまでは退職後の夫と毎日一緒に過ごしていた家で、ずっと独りぼっちで夫の身を案じていたのだ(近所に住む私の夫が毎日顔を出し、代わりに買い物をしてあげてはいたが)。元々じっとしているのが苦手で、無類の世話好きだった彼女にとって、これも堪えただろう。

義父の退院後彼らの家を訪ねた時に「ずっと一人で家にいる間、あまりにヒマで数十年ぶりに絵なんか描いちゃった」と見せてくれたが、そこには荒涼とした、ひたすらだだっ広い農場に無表情でたたずむ小さな農夫がぽつんと描かれており、彼女が襲われていた孤独や寄る辺なさが紙一杯に表現されているようだった。

義父は退院後すぐに、妻の様子がおかしいことに気づいたという。以前はパワフルでなんでも仕切るのが好き、家事を120%こなして家の中は常にピカピカ、料理上手で、時間を見つけては孫のために裁縫や編み物までしていた義母が、義父が退院した時には一人では夕飯のメニューも決められず、大好きだった趣味も一切やる気が起きず、一日中ため息をついては泣くようになっていたらしい。

そしてコロナ体験で終活を意識した義父が「落ち着いたら、この家と車を売ってもっと駅に近い街中のアパートに引っ越したい」と言うと、「どうやってこんな散らかった家の中の荷物を整理するの」とパニックを起こした(繰り返しになるが、典型的オランダ人の彼らの家は常にモデルルームのようにきれいだし、収納されている荷物もそう多くない)。

状況が呑み込めない義父と息子たちが彼女のために家の中の不要物を大々的に整理するも、「銀行に家を差し押さえられてしまう」「もう息子たちに会えない」「ガレージのドアから空き巣が入る」など非現実的なネガティブ思考を止められず、眠れず、一人になるとパニックを起こす。神経系の検査をしても異常は見つからないのに、脚が震えて歩けない。以前は自分の非を認めたくないタイプだったのに、今はあれこれ自分の欠点を挙げてまた泣く。

こんな状態の義母に一人で対応するのに、病み上がりの義父が音を上げるのにそう時間はかからず、かかりつけ医に相談したところ即精神科に入院となった。

念のため言っておきたいが、これはいわゆる「コロナ鬱」とはニュアンスが違うし、身内がコロナにかかった人が皆こうなるわけでももちろんないだろう。

義母が途方もなくパワフルなスーパーママでいつもすごい勢いで家族の面倒を見ていたのは、それだけずっと気を張って生きていたのかもしれない。実は彼女はここ数年で孫や息子を事故で亡くしたり色々経験しつつ気丈に振る舞ってきたので、義父の入院でその喪失体験がフラッシュバックしたのかもしれない。書類的な管理は全て義父が行ってきたので、彼を失ったらいったい何をどうすればいいのか分からずに途方に暮れてしまったのかもしれない。

筆者が日本で学校の心理士として仕事をしていた時、自然災害などで子どもの心のケアをする必要が出た際には「災害以前普通に振る舞っていたとしても、過去のトラウマや家庭の事情などリスクファクターを抱えている子は特に注意を払うこと」は常識だった。義母のように普段から少し無理を重ねている可能性がある人は、今回のコロナ禍で心に疲れが出ないように労わってほしい。

コロナ時代に蔓延する孤独の問題への対応も急がれている(画像:unsplash)

いずれにせよ彼女は数週間の入院と投薬である程度落ち着きを取り戻し、現在退院を計画するために医師と面談を重ねている。退院後彼女がどんな生活を送るかは、本人を含め誰にも分からない。

義父の口から語られた病気と入院の体験

「しばらくはみんな、僕に会うのが怖いだろうから」と退院後1か月以上経ってからやっと家族の集まりなどにも顔を出すようになった義父本人が語った入院中の体験もまた、想像以上だった。

まず以前の記事にも書いたが、改めて訊いてみてもやはり入院前はコロナだとは本当に夢にも思わなかったそうだ。今までに経験したことのない熱やだるさ、食欲不振、咳などが全く軽快しなかったが、「風邪にしてはしつこいからインフルエンザかな」程度に思っていたらしい。「味が分からなくなるとよく聞くけれど、症状が出てから味覚はどうだった?」と訊いたら、「何にも食べられなかったから分からんね~」だそうだ。申し訳ない。

それから以前聞いていた義父の入院体験から、筆者の記憶に強烈に印象に残っていた場面についていくつか突っこんで質問してみた。

まずは、入院してすぐに検査結果を見た呼吸器専門医に「体に負担がかかるから生存確率が非常に低いし後遺症も残るが、それでも悪化した場合は人工呼吸器につないでほしいか?」と訊かれた時。即答で「No」と答えたことは知っていたが、そこに迷いはなかったのか?何を考えてそう答えたのか?という疑問だ。義父の答えは、

「だって医者があんまりストレートにオススメしないニュアンスを出すんだもん、そこまで言われて『やだやだ人工呼吸器やって』ってダダこねても意味ないと思ったんだよ。数年前に人工呼吸器を経験した友達がその後すごくリハビリに苦戦しているのも知っていたし。それにしても死にかけの患者によくあそこまでズケズケ言うよ、あのポニーテール野郎」

ということだった。筆者も最初にその話をきいた時は医師の歯に衣着せなさにびっくりしつつオランダらしいなあと思っていたが、さすがに彼はオランダ人の中でも特別正直なタイプの医者だったらしい。日本ではまずありえない対応だろう。

そして以前の記事には書き忘れてしまったが、「入院2日目に同室に入院してきた男性が、数時間後に色んな管につながれたままストレッチャーで運び出されて行ってそのまま戻らなかった」という話。やっとできたルームメイトがおそらくそのまま亡くなったであろうことにさすがにショックを受けたらしい義父が、「妻の声を聞きたい」と義母に電話した時に語っていたエピソードだ。

詳しく訊いてみたところ、その男性は80歳くらいのコワモテで、入院してきたときにはお互い苦しい息の下から挨拶を交わす程度の余力があった。しかし数時間呼吸器と投薬の措置を受けた後、「苦しい、もう嫌だ」と騒ぎ始め、ナースコールで駆け付けた看護師に「もうたくさんだ、治療を止めてくれ」と怒鳴ったという。

すぐに医師が呼ばれ、「本当に治療を中止したいですか?」と訊かれると、「いい人生を生きたからもういい」ときっぱりと答えた。ほどなくマスクをした彼の娘が二人病室に通されてくると、彼は落ち着いた様子でもう終わりにしたいこと、彼の人生が幸せだったことを伝え、「くれぐれもママ(彼の妻)をよろしく」と言い残して室外に運ばれて行ったとのことだった。

自分もまだまだ回復の兆しが見えていない入院2日目にこの体験は確かにきつかったろう。「入院している時、何が一番恋しかった?」と訊くと、彼は「仲間」と即答した。

特に、病室に一人で眠れず、何かするわけにもいかず、時計を見るたびに「まだ2時か」「まだ3時か」と時の流れの遅さにがっかりし続ける夜は、本当に長かったとのこと。そんな時「夜、長いね」と声を掛け合える仲間がいたらどんなにいいか、と思ったという。

ちなみに入院中の義父から「ゆうべも眠れなかった」と聞くたびに、不安で目がさえてしまうのか、眠れないほど具合が悪かったのかと思っていたが、実際の原因は「横になると息苦しくなり、SpO2(血中の酸素濃度の目安となる値)が90以下に低下してモニターの機械がピーピーと警戒音を立て、看護師が飛んできて呼吸指導をされるから」だったらしい。具合が悪くて何日も眠れていない夜に、少し寝ようとするたびにピーピー音が鳴って起こされるなんてそれだけでノイローゼになりそうな話だ(もちろん必要あってのことだが)。

しかし義父はそのこと自体よりも、入院3日目にせっかく新しく同室に入院してきた2人目のルームメイトが、たった数時間で「この人(義父)の機械がピーピーうるさくて眠れない」と他の部屋に引っ越してしまったことがショックだったという。入院中の義父もまた、相当孤独だったのだろう。

最後に彼に「コロナの前と後で何か自分に変化あった?」と訊くと、彼は「そんなもんないよ、全くおんなじ人間よ」と肩をすくめた。「世界が大注目の大病で死にかけたのに変化なし?じゃあ死ぬまでずっと変わらないかもね」とちょっと驚いた筆者にも「さあ、先のことは分からんの~」とのことだった。義父がなぜ回復したのかは残念ながらいまだに謎だが、こういう適当でおおらかな性格もなんらか関係していたかもしれない。

確かに一人はきつい(画像:unsplash)

家族に起きたポジティブな変化と「アフターコロナ」の生活

そんなわけで、アフターコロナの義父は義母に代わって家事全般をしつつ家を守り、毎日病院に妻を見舞っている。義母が外出許可を得て自宅で過ごす日は、義父が腕を振るって妻の好物を作っているらしい。筆者もたまに義父を夕食に呼んだり、彼の好物の日本風の塩鮭やおにぎりを差し入れたりして今まで子育てに手を借りまくってきた恩を少しでも返そうとしている。

一連の体験を通じて家族や考えにいくつか変化があった。まずは家族内で、良かれと思うことは遠慮せず言い合い、行動に移すようになった。

特に今回、義父が入院する前私たちは内心「コロナでは」と思いながら、本人が病院に行きたくないならと遠慮して何も言わずにいたことを反省した。結果的に息子たちが強く言って検査を受けさせたのでギリギリ間に合ったが、もう少しでも自宅療養させていたらと思うとぞっとする。それで義母の様子がおかしいと聞いた時はすぐに駆け付け、その場で無理やり緊急受診の予約をした。

「人生、いつ何があるか分からないから」というコロナがくれた口実で、家族はみんな自分やお互いの体や心を労わり、気持ちや感謝はすぐに伝えあい、「いつかやろう」と思っていた大きめの仕事にそれぞれ着手した。

また、なんとなく絶対的な孤独の中で戦うようなイメージのあったこの新型肺炎だが、義父の入院中に家族が一丸となってスマホや手紙で義父を励ました体験は少しその見方を変えた。

直接会えなくても家族の思いは確かにあり、それを伝え、励ます手段もある。その気持ちが何よりもうれしかったと義父が言っていた。

コロナに限らずなかなか会えない友人や家族にも、手段は何でもいいので相手のことを想っていることを伝えよう、そしてそれは相手にとっても自分にとっても意味があることだと、少し心強く思うようになった。筆者のような海外暮らしの人には特に思い当たるふしがあるのではないだろうか。

どんどん伝えよう(画像:unsplash)

最後に小さなことだが、家族全体がてんやわんやになったことで、人生に必要なものとそうでないものが少しクリアになった。実はなくても平気だったものの多さに驚くと同時に、こんな時でもやっぱり譲れないことはきちんと実行するようになった。

私の中でも今回の一連の「コロナ騒動」の体験はまだ完全に消化できてはいない。遠い未来に歴史や保健体育の教科書でこの一件について学んだ私の孫が、「ばーちゃんこの時のこと覚えてる?」と聞いてきたら、私はどんなことを思い出し、どんなことを言いたいのか、皆目見当もつかない。まあまあ確信を持って思うのは、その頃までにこのパンデミックがただの歴史的事実になっているように、今考えて行動しようということだけだ。 

前回に引き続き長くなりましたが、まだ出口の見えない状況の中少しでも誰かのお役に立てる部分があればと思いありのままをお伝えしました。

どうぞ皆様引き続きご無事でお過ごしください。

このパンデミックが一日も早く完全に収束すること、ウイルスや二次被害から世界が一日も早く元気を取り戻すことを心から願ってこの稿を終わらせていただきます。

文:ステレンフェルト幸子
編集:岡徳之(Livit

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