自転車で上場企業を回って生み出した、被災地・石巻発の新たなカーシェアリング

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新型コロナウイルス感染症の感染拡大で社会に閉塞(へいそく)感が満ち、深刻な経済危機にある現在。しかし日本は、大災害に襲われながらもその都度立ち上がってきた。本シリーズでは、逆境に負けない日本企業の技術力やマインドを取り上げ、「コロナ後」のビジネスのヒントを探っていく。

今回お話を伺ったのは、日本カーシェアリング協会の代表理事、吉澤武彦氏。東日本大震災で最も被害の大きかった石巻で、顕在化したコミュニティー形成の課題を、一般的なシステムとは異なるカーシェアリングによって解決した。地域コミュニティーが運営し、住民同士が車の活用を通して支え合う「コミュニティー・カーシェアリング」はどのように生まれたのか。困難な状況下で行動を起こし、課題を解決した吉澤氏の思いを伺った。

大事なのは「まずは動く」こと。 四季報を片手に自転車で上場企業に突撃アポ

大阪の企業に勤めていた頃から社会人サークルでチャリティー活動に取り組んでいた吉澤氏。阪神・淡路大震災の時に「神戸元気村」を立ち上げた山田バウ氏(故人)との出会いをきっかけに、本格的に社会活動に傾倒していく。東日本大震災後はすぐに福島で支援活動を始めた。

吉澤 「まずは動くことだとバウさんに教わっていたので、現場に入り、最初はいわきで子どもたちを関西に疎開させる活動を行いました。その後、避難所に炊き出しグッズを置いて回ったり、農家さんのコメを販売する手伝いをしたり、福島第一原発の20〜30キロ圏内に物資を集める拠点をつくるプロジェクトを行ったりしました。

そんな活動を続けていた4月上旬、バウさんからカーシェアリングをやってみてはどうかと提案されました。その時はカーシェアリングという言葉も知りませんでしたし、実は運転も苦手だったんです。でも現場で活動をしていて、車が流されていてみなさんが困っているのは感じていましたから、車をシェアするシステムができれば助けになる。難しいとは思いましたが、だからこそ自分がやらなければいけないと思い、挑戦を決めました。

まずは車集めからです。1枚の提案書をつくり、神戸の本屋で会社四季報を買って、自転車で一部上場企業を回っては『被災地でカーシェアリングを始めるための車をください』とお願いしていきました。駐車場に車がいっぱい止まっている会社があれば、知らない会社でも訪ねてお願いしていましたね。

いまだったらもっと効率的に動けますが、その時は何の経験も実績もないので、とにかく思い付いたことを実行しました。突然の提案ですから、どの企業でもうまくいかなかったのですが、続けるうちに友人や知り合いが応援してくれ、部長や社長クラスの方を紹介してもらえるようになったんです。そうして1カ月ほど訪問を続けたところ、5月半ばに車を1台提供いただきました」

一般社団法人日本カーシェアリング協会 代表理事 吉澤武彦氏

被災地の真ん中でひな形を生み出し、社会にインパクトを与える

とにかくアクションを起こし、カーシェアリングを始めるための車を手に入れた吉澤氏。より社会に大きな影響を与えるために、取り組みを始める地に石巻を彼は選んだ。

吉澤 「『ひな形をつくることこそが一番の社会貢献だ』とバウさんから教わっていました。東日本大震災で被害規模が一番大きく、震源地からも一番近い、被災地の真ん中である石巻でしっかりとしたひな形をつくれば、最も社会的にインパクトがあって、より大きな影響が生まれるのではないかと考えました。

そこで石巻の仮設住宅を回って手伝ってくれる方を探し、3人の方に協力してもらえることになりました。被災地に合ったカーシェアリングについても勉強し、発祥地といわれるスイスでITもない時代にどうやって始まったかについて、カーシェアを研究している方から教わる機会も得ました。7月には非営利型一般社団法人として日本カーシェアリング協会を設立。車を石巻に運び、テスト運行を始めます。

目的はひな形をつくることですから、宮城県警察や宮城運輸支局などに一つひとつきちんと話を通しながら進めていきました。私たちの考えていた、地域の人たちみんなで車を共有するというカーシェアリングの前例がなかったので、誰が責任者でどう管理するかなど非常に厳しくチェックを受けながら、体制やルールを調整していって、仮設住宅の敷地内に車庫証明が発行され、登録できたのが2011年10月10日です」

アナログな仕組みだからこそ生まれた、地域の支え合い

自転車で車集めを始めてから実に半年。できあがったのは、集会所のカレンダーに予定を書き入れ、鍵を持っている人のところへ行って受け取るという極めてアナログなカーシェアリングの形だった。このシステムは、実際に使用する住民たちの話し合いで決まったものだが、それにより重要な副産物も生まれていた。

吉澤 「被災地で困っていたのはご年配の方が多い。WEB予約、支払いはカードという、一般的なカーシェアリングではそういった方に馴染まないので、地域にあったシステムをつくることが必要でした。そのうえで、自分たちの活動だと思ってもらえるよう、ルールや仕組みは集まって決めてもらいました。すると抽選で仮設住宅に入った知らない人同士だったところから、車を使いたい人に変わる。利用方法を話し合うことで会話も生まれ、絆が育っていったんです。

そのうちに『あそこのおばあさんが病院に行くタクシー代で毎月8万円もかかっていて大変だと話をしていたよ』、『じゃあみんなで送ってあげようか』という話も持ち上がって、移動支援的な活動も行われるようになりました。ほかにもみんなで買い物に行こうとか、温泉に行こうとか、カーシェアリングを通じて輪ができ、コミュニティーが生まれていったんです。そこで取り組みに『コミュニティー・カーシェアリング』と名付けました」

当時、仮設住宅では自治会の形成が難航していたが、「コミュニティー・カーシェアリング」を導入した仮設住宅では、関わった人々が中心となったことでスムーズに形成が進んだ例もある。

吉澤 「石巻市も大変驚いたそうで、効果を認めてもらって委託を受け、2012年2月には取り組みをほかの仮設住宅にも広げていくことになりました。

その頃には新聞やテレビの報道を見て車を提供してくれる企業やボランティアで車を運んでくれる人も増え、活動にも拍車がかかりました。石巻専修大学には自動車工学コースの授業の一環として、大学内の整備工場でタイヤ交換やオイル交換、ワイパーやバッテリーなどの用品交換をしてもらっています。その用品は全てメーカーからの協賛品です。こうした行政や企業、大学との連携で、取り組みが持続できるように支えてもらっています」

一人ひとりができることをやることで、新しいものがうまれる

東日本大震災で車を失った被災者のために始めたカーシェアリングは、地域を支え合う取り組みへと発展していった。そのノウハウを生かして、熊本地震、九州豪雨などの災害時には、車の貸し出しを実施したほか、自治体とは災害時の協定を結ぶなど、活動は日本全国に広がりをみせている。

吉澤 「災害の被災地から助けてもらえないかと連絡をいただくこともあり、なんとかしたいという思いでやってきた結果です。高齢化や交通弱者の問題は被災地以外でもありますし、自治体からも問い合わせや視察を受けていますので、そうした問題の解決にもコミュニティー・カーシェアリングを役立てていければいいですね。

いままでにないものを石巻の人たちと共につくり上げていって、それを使って、今度は石巻の人たちが、いろいろな課題を抱えた地域や災害に見舞われた地域で支援していくことが、石巻への一番の貢献だと考えています。寄付された車が世の中のために生き生きと活躍するような、そういう文化を、石巻の人たちが中心になってつくっていく。そうしたビジョンを思い描いていて、少しずつ、かない始めてきたところです。

石巻の人たちが全国を飛び回って、世の中をより良い方向に進める担い手となって大活躍する姿は、災害の被災地はもちろん、新型コロナ禍にあるいまの日本でも、何か力強いものを生み出せるという希望にもなるのではないでしょうか」

甚大な被害を出した東日本大震災時と同じく、困難な状況下にある現在の日本。新型コロナ禍の中で顕在化した問題の解決に取り組みたいという思いが芽生えている人も多いだろう。それを実現するために大事なことは何だろうか。

吉澤 「いま自分がいるところでできること、やれること、こうしたらいいんじゃないかと思っていることを、行動に移してみる。何事もそこからだと思います。それが僕の場合は、自転車に乗って企業を回って車を集めるということでした。

石巻に視察に来てくれた高校生から先日、新型コロナで学校に行けず家にずっといて、何かできることはないですかと連絡がありました。ネットにマスクのつくり方が載っているから、それでマスクをつくって近所のおばあさんにあげたら喜んでくれると思うよと伝えました。

別に大それたことでなくても、いま自分ができることをやったらいいんです。自分の立場、人脈、手元にあるものを活用して、一人ひとりができることをやっていくと、大きなことにつながったり、新しいものが生まれたりすると思います」

カーシェアリングという言葉さえ知らない状況で、車を集めるためにまずは動き始めた吉澤氏。その行動は、被災地のみならず、日本の地域が抱える問題を解決する新たなカーシェアリングをつくりだした。

困難な状況下にあっても、誰にでもできることはあるはずだ。大事なことは、自分ができることを考えて、まずは動くことだということを、吉澤氏の取り組みは教えてくれる。

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