「偏差値の無駄使い!」あの時の一言が人生を変えた。 サラリーマンでありながら経営者として“明るい医療”を目指す

さまざまな大人の“はたらく”価値観に触れ、自分らしい仕事や働き方とは何か?のヒントを探る「はたらく大人図鑑」シリーズ。

今回は、医学部を卒業後に、全く異業種の華やかな広告代理店の世界に飛び込んだ河野さん。ある時、仕事で出会った方からの「偏差値の無駄使い!」という一言をきっかけに、ご自身の人生を見つめ直します。

その後、自分の根底にある“明るい医療”を人生のテーマとし、医療機器メーカーに勤めながら、障害福祉に関わるご自身の会社を共同経営されています。「自分の人生は自分で決める」という強い信念をお持ちの河野さんのはたらき方についてお伺いしました。

医学部を卒業後、医療の現場から逃れるように、華やかな広告代理店へ就職

——今、どんなお仕事をされていますか?

河:現在、いくつかの仕事を並行して行っています。

ひとつは、医療機器メーカーで、循環器疾患分野での新規事業開発と研究をしています。

また岩手県と島根県で家庭血圧に関する研究を行っています。その他に、NPO理事を2つしています。そこでは、障害者福祉分野で、小中高生を預かる放課後デイスクールからグループホーム、生活介護、就労支援B型の経営をしています。

——幅広い分野でご活躍されているんですね。これまでの経歴を教えていただけますか?

河:川崎医療短期大学から大阪大学医学部保健学科に編入し、卒業後、株式会社フロンテッジという広告代理店に入社しました。

その後ファイザー株式会社(外資製薬会社)、テルモ株式会社(医療機器メーカー)、株式会社ゼイヴェル(ファッション関連会社)と会社を移り、そして現職に至ります。

——学生時代、どのような就職活動をされていましたか?

河:就活に関しては全く焦ってなかったんです。

「病院か研究施設への就職になるだろう」と漠然と思っていたので、就活をせずにオーストラリアにワーホリにでかけたりしていました。

帰国後、周りに流されて就活したものの、志望動機が全く書けなくて早々に諦め、就活留年をしていました。

通常の学部生より3年多くかけて25歳で卒業しています(笑)

——最初の就職先はどのようにして決められましたか?

河:学生時代に病院実習をしていたのですが、自力で歩いていた患者さんが車椅子になり、ストレッチャーになり、もう病院に来なくなる、つまり亡くなる。というサイクルを何度も見ているうちに、気持ちが落ち込んでいってしまったんです。

その反動で派手な世界に興味が湧き、友達に「電通って会社があるよ」と教えてもらいました。正直、当時は、電気関連会社か?くらいの認識しかなかったのですが(笑)

そこで関連会社の募集を見ていたらフロンテッジ(電通とSONYが作ったクリエイティブエージェンシー)という会社があったので、受けてみたら運よく採用に至りました。

「偏差値の無駄使い!」その言葉に衝撃を受け、人生を見つめなおす。そして見つけた自分のテーマ

——広告代理店から医療関係に転職されたのはどういったきっかけがあったんでしょうか?

河:入社して3年目の頃、新人アーティストのプロモーションを任されていました。

当時始まったばかりの報道ステーションでそのアーティストを取り上げてもらったんです。

その時に仲良くなったディレクターから、「お前、医療が得意なのに何してるんだよ。偏差値の無駄使い!もっと世の中のために頭を使えよ。」と言われたんです。

頭を殴られたような、ってこういうことを言うんだろうな、と思うほど衝撃でした。

——衝撃的な言葉ですね…!その言葉からご自身の人生を見つめ直されたんですね。

河:そうですね。

“自分がなぜ今ここにいるのか”を、初めて真剣に振り返ることになりました。

そこで、僕の根底には、暗くて嫌な実習現場にいたときに感じた「もっと明るい現場の方が患者さんは治りやすいのではないか」という漠然としたイメージがあることに気づきました。

——学生時代に医療の現場に暗さを感じ、華やかな代理店の世界に就職した頃のことを思い出されたんですね。

河:その頃の僕は、自分が感じた思いに真剣に向き合わず、明るい世界に自分だけが逃げていっただけでした。

「自分が心地よければいいや」って短絡的な思考だったことに気づいたんです。

自分の思考をまとめていった結果、僕は、「明るい医療・福祉社会を作りたい」ということに行きつきました。

その気持ちが、それ以降の自分の羅針盤になっています。

——その時期は、どんなことを考えていたり悩んでいたりしましたか?

河:ディレクターから「偏差値の無駄使い!」とガツーンとやられるまで、「やりたいことないな」っていつも転職サイトを見ていました。

「あー、俺のキャリアだと大体こんな給料になるんだな」とか考えるだけでした。

自分に軸がないと、他人に付けられる給料が軸になっちゃうんですよね。

そしてその時期に、もう一つ頭をガツーンとやられる出来事があったんです。

——それはなんでしょうか?

河:30歳くらいですかね、帰省中に母親から祖父の話を聞いたんです。

祖父は、戦後にいくつか会社を興して、今も実家はその中の一事業を生業としています。

その祖父が、ビジネスで最も重要な要素としていたのが“他人に値段を決められない事業であること”だったらしいんですよ。

それを聞いた時に、またガツーンという衝撃がありました。

「俺、めっちゃ他人の評価を気にしているわ」と。

そこからさらに他人の評価ではなく、自分自身の気持ちを大切にするようになりました。

自分の人生を他人に委ねない。何を選ぶかは必ず自分で決める

——河野さんが、キャリアを選択する上で重要だと感じることは何ですか?

河:“どちらを選ぶかは必ず自分で決める”ということです。

これはある方に聞いたんですが、「岐路に立った時、自分で選択した方向は大体が正しいし、後悔がないから負のエネルギーを残さない」らしいんですよ。

祖父が言っていた“他人に値段を決められない事業であること”というのも、要は自分で決めるということですからね。

——河野さんが、“はたらく”を楽しむために必要だと思うことはなんですか?

河:あくまでも僕の場合ですが、就職先を“給与で選ぶ”“会社の知名度で選ぶ”というのは上手くいかないような気がします。

給与をもらっている立場は決定権が他人にあって、その人に常にジャッジされるということです。

自分の人生を誰かに委ねている状態は、私にとっては心地良くありません

それで僕は、早くその状況から抜け出そうと、転職を繰り返していたように思います。

「あーだめだ!リセット!」みたいな感覚でポップに転職です(笑)

——ご自身で心地よい環境を作り出してこられたんですね。

河:はい。それから30代半ばで、いま勤めている会社を共同創業することになり、人生で初めて会社の決定権を持つことになりました。

そこからサラリーマンと経営者の二足の草鞋(わらじ)が始まったんですが、リスクを負った経営者になってみて、初めて「仕事が楽しいな」って思えるようになったんです。

——それはなぜだと思われますか?

河:会社を成長させたいという想いが今までとは違うんだと思います。

それに、意思決定しなければいけないスピード感がとても心地良くて楽しいですよ。

ぜひ皆さんも一度は起業目指してみてください。

——河野さんは、どのようにしてやりたいことや自分の道を見つけましたか?

河:やりたいことや自分の道って、「これでいいや」って諦めない限り、ずっと探し続けていくものだと思います。

「見つけなきゃ」と思わず、目の前にある道のどちらに行きたいのかを、その時の直感でいいので、自分で決めながら進むことだけが、いつかやりたいことを見つけられる方法だと思います。

——“はたらく”ことに関するご自分のルールや、これだけは譲れないというような思い、信念などがあれば教えてください。

河:この数年ですけど、”着眼大局、着手小局”を意識してはたらいています。仕事に大小ありますが常に数歩先の大きな世界観を持ちつつ、目先の一歩一歩は地味でも着実に進めていくことにしています。その積み重ねが大きな成果を生むと信じているからです。

——“はたらく”を楽しもうとしている方へのメッセージをお願いします。

河:「やりたいことがわからない、どうやったら見つけられるんだろう」という思考は捨ててみてはいかがでしょうか。

人生をかけて取りかかれるような“やりたいこと”は、いつか見つかるかもしれないし、死ぬまで見つからないかもしれません。

「見つかったらいいな!」と希望を持ちつつ、目の前の選択を自分で決断して進める努力を千本ノック的に続けていけばいいのではないでしょうか。

もしその先にやりたいことが見つからなかったとしても、「逃げたからこうなったんだ」という後悔はないでしょうし、やり切った感と共に、「これまでの道は自分で選んできた」という自信が、自分の糧になるのではないでしょうか。

河野 誠二(こうの せいじ)さん
会社員、NPO法人所属
大阪大学医学部保健学科を卒業後、広告代理店、外資製薬会社、医療機器メーカー、ファッション関連会社を経て、現在は医療機器メーカーで研究と新規事業開発を手掛ける。同時に、自身が理事を勤めるNPO法人では、小中高生を預かる放課後デイスクールからグループホーム、生活介護、就労支援B型の経営に携わっている。

転載元:CAMP
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