AIのさらに先へ。世界が注目するブレインテック市場は2020年以降どう動くのか

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多くの日本人にとって、ブレインテックはまだ耳慣れない言葉かもしれない。読んで字のごとく、脳(Brain)とテクノロジー(Technology)を組み合わせた言葉だが、その意味するところは、「脳神経科学とITを融合させることによって、脳波や脳の血流などから脳の状態を解析し、脳の働きの物理的なメカニズムを明らかにすること」である。

加えて、科学的に判明したメカニズムを、さまざまなアプリケーションやサービスに生かしていく活動・ビジネス領域のことを指す。ブレインテックは、2024年には5兆円規模の市場を成すという予測もある。今回は、その研究・開発を行う株式会社メディアシークの平井祐希氏に、世界のブレインテックの動向と将来展望を伺った。

平井祐希氏。コンシューマー事業部でブレインテックチームを率いる。

メディアシークでは2018年より、イスラエルのブレインテック企業Myndlift社と提携し、脳の集中を高めるトレーニングアプリ「Myndlift」の販売代理店となった。現在はその国内販売・マーケティングを担うほか、独自に脳科学×テクノロジーの分野の研究と、ブレインテックアプリの開発を進めている。

法人向けのITソリューションや個人向けアプリ開発を主な事業とし、一般には累計3,000万ダウンロードのQRコード読み取りアプリ「アイコニット」の開発元として知られるメディアシークが、「脳」の領域に踏み込んだのはなぜか。

「創業当時から研究開発を続けている画像認識技術に関する最新情報収集のため、弊社代表(西尾直紀氏)が過去複数回にわたってイスラエルを訪れておりますが、2017年にイスラエルへ行った際に、今イスラエルで最も活発な新しい事業領域は何かを聞いたところ、『ブレインテック』だという答えが返ってきたのです」(平井氏)。

その時点では西尾氏にとって「ブレインテック」は初耳だったそうだが、調べていくうちに、まだあまり企業が参入していないブルーオーシャンであることが分かった。今後成長が見込める領域であること、そして何より「面白そうだ」というシンプルな動機で、事業として取り組むことに決めたそうだ。「アイコニット」のマーケティングを担当していた平井氏は、その時に自ら手を挙げて新規事業開発チームに加わった。

ブレインテックに対する世界各国の取り組み

イスラエルの元首相であるシモン・ペレス氏が非営利団体「Israel Brain Technologies」の設立を主導し、同団体が2013年に初めて「BrainTech 2013」 というカンファレンスを主催したのを機に、この新しいビジネス領域と「ブレインテック」の呼び名が世界に知られることとなった。

アメリカなどでは「ニューロテック」と呼ばれていることもあるが、日本では「ブレインテック」のほうが浸透しつつあるようだ。

2013年から1年おきに開催されており、BrainTech 2019は4回目の開催となった。

大国を中心に世界各国がブレインテックに注目しており、アメリカでは2013年のオバマ政権下で「BRAIN Initiative」という脳の全容解明を目指す巨大プロジェクトをスタートした。「アポロ計画」「ヒトゲノム計画」に匹敵する予算が投じられ、10年計画の最初の5年を「脳を見える化する技術の開発」にあて、残りの5年は分析を中心に行うとしている。

また、欧州連合(EU)では「Human Brain Project」が、これも2013年にフラッグシッププログラムの一つとして採択された。その他、中国、オーストラリア、カナダ、韓国などでもそれぞれ国を挙げて研究に取り組んでいる。

日本も、ブレインテックの基礎研究は盛んだ。中心となるのは、2014年から開始した「革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明プロジェクト(Brain/MINDS)」という取り組みで、理化学研究所が代表機関としてヒトの高次脳機能の全容解明を目指し研究を進めている。

それより10年以上前の2003年5月に設置された、国際電気通信基礎技術研究所(ATR)が脳情報研究所でも、現在ブレインテック研究が盛んだ。2008年には、文部科学省が脳科学研究戦略推進プログラム(脳プロ)を発足し、「社会に貢献する脳科学」を掲げて、脳全体の神経回路の解明、精神疾患等の治療法の確立を目指している状況だ。

脳の状態を把握し、自力で制御できるようにする

ブレインテックの根底には、キーワードとして「脳の見える化」があると平井氏は話す。

「これまでは脳の中で何が起こっているのか、物理的にどういう動きが生じているのか、よく分からない部分が多かった。しかし近年、脳波のセンシング技術や、磁気により脳の血流量等を測るfMRI(磁気共鳴機能画像法)、AIなどの発達により、脳の状態把握・解析ができるようになり、ブレインテックが加速しているのだと考えられます」(平井氏)

ただ、脳の働きを「見える化」するといわれても、実際のところ何がどのようにしてアプリケーションやサービスになりうるのか、イメージしにくいかもしれない。そこでまずは、具体的なブレインテックの事例の1つとして、メディアシークで取り扱っている「Myndlift」について紹介しよう。

簡易脳波計「Muse 2」で頭皮脳波を測定する。

「Myndlift」は、先にも触れたとおりイスラエルの企業が開発したスマートフォンアプリだ。このアプリ単体で使うのではなく、カナダのInteraXon社が開発した「Muse 2」という簡易脳波計とセットで使う。

「Muse 2」はヘッドフォンのような形をしており、額にセンサー部分が当たるようにして両端を耳に掛けて装着し、頭皮脳波を測定する。

アプリを使う際には、まず何もしない状態の脳を測定したデータをアプリに送り、ベースの状態としてセットする。これをキャリブレーションという。

その後、目標とする脳の状態、例えば「集中」「リラックス」などを選択してゲームをスタート。「集中」を選んだら、脳が集中状態に近づいて注意力が高まるほど、ゲーム内のキャラクターが速く走るようになる。逆に、集中できない時はキャラクターの動きは遅いままだ。

Myndliftのゲーム画面。キャラクターの走る速さで脳の集中状態が分かる。

「このように、脳の状態を視覚的に把握し、それを受けて脳の状態を望む状態に自ら近づけるようにトレーニングすることを『ニューロフィードバック』といいます」と平井氏は話す。このニューロフィードバックを繰り返していくと、脳波計とアプリを使わずとも脳の状態を望む状態に持って行けるようになるのだという。

「例えば、社員研修の一環でマインドフルネスを取り入れている企業で、それをサポートするためにMyndliftを導入されているところもあります。瞑想状態に入っているかどうかは外から見ても分かりませんし、本人も今の状態が正しく瞑想できている状態なのかは分からないでしょう。Myndliftによって脳が“正解”の状態に近いかどうかが分かるため、マインドフルネスの効果を高めることができます」(平井氏)

「Myndlift」は、もともとはADHD(注意欠如・多動症)を改善するために開発された。イスラエル、アメリカを中心に世界9カ国の医療機関で利用実績があるのだという。

ただ日本では、医療機器として認証を得るハードルが高いため、病気の予防・治療効果にフォーカスするのではなく、「Myndlift」をマインドフルネスや仕事・勉強などで集中を高めたい人のサポートツールとして展開している。

「2019年の7月から、立教大学体育会自転車競技部の協力を得て、スポーツパフォーマンス向上の効果検証のためにMyndliftをテスト導入していただいています」と平井氏が話すように、脳の状態をコントロールできるようになることで能力や成績を向上できる可能性は、さまざまな分野に広がっている。

ブレインテックの最大の用途は医療・ヘルスケア

ブレインテックは、Myndliftのような「ニューロフィードバック」分野以外にもさまざまな領域に応用・展開されている。その最たるものは、医療・ヘルスケアの領域だ。脳の働き・メカニズムが分かってきたことによって、うつ病などの神経性疾患や、認知症などの脳疾患の治療に役立てることが期待されている。

「2019年4月発行の学術誌『Neurology』には、記憶力が低下している高齢者の脳の特定部位に磁気刺激を与えることによって、記憶力が改善されたという研究論文が掲載されました。今後は、このように脳に直接アプローチする研究がなされ、治療法として確立していくものと考えられます」(平井氏)

ヘルスケアの事例としては、例えばフィリップス社の「SmartSleep」が挙げられる。眠る際にヘッドバンドを着けて、睡眠中の脳波を計測する。睡眠中はレム睡眠・ノンレム睡眠の状態を行き来するが、それぞれの状態に適した音を聞かせることで、深い睡眠の質を高めるプロダクトだ。

三菱総合研究所の試算では、世界全体でのブレインテックの市場規模は2024年に4.5兆円に達すると予測しているが、そのうち3.8兆円(約85%)は「医療・ヘルスケア等(創薬領域除く)」が占める。具体的には、医療機器やSmartSleepのような睡眠の質向上を図る機器がこの領域だ。

それ以外では、「BMI/脳機能計測市場」が5,000億円程度、「ニューロマーケティング」が2,000億円程度と予測されている。ちなみにMyndliftのようなニューロフィードバックによる生産性向上系は「BMI/脳機能計測市場」に含まれる。

ここでまた見慣れない言葉「BMI」と「ニューロマーケティング」という言葉が出てきた。それぞれ事例とともに説明しよう。

頭で考えただけで機械やコンピューターを操作する「BMI」

BMIというのは、Brain Machine Interfaceの略だ。脳波などを検出、あるいは逆に脳への刺激といった手法により、脳とコンピューターの「つなげる」機器やプログラムのことを指す。接続先がコンピューターに限定される場合は、BCI(Brain Computer Interface)と呼ばれることもある。

機械やコンピューターを操作するとき、普通は手を使ったり、音声で指示したりするが、BMIは声すら出すことなく「頭で考えただけで」操作できるようにする技術だといえる。

例えば、Facebookが進めている「Brain-Typing project」もBMIの一つである。これは、頭で考えただけでスマホなどに文字入力ができるシステムのことで、2017年のイベントでは1分当たり100語のスピードでの入力を目指すと発表し、2019年7月には研究論文とともに進捗状況を公開した。

また、Microsoftは、頭で考えただけでコンピューター上のアプリケーションを動かす技術「Brain Computer Interface」の特許を2018年1月に取得し、さらに研究開発を進めている。さらに、テスラの創業者のイーロン・マスク氏は2019年7月、自身が設立したNeuralink社において、「脳にチップを接続し、考えただけで電子機器を動かすサービスの臨床試験を2020年中に開始する」と発表した。

BMIは、単に操作・入力の手間を省くだけでなく、人間の能力を拡張するものだ。手入力では物理的に不可能なスピードでの入力を可能にするし、麻痺などで身体が動かせない人にも機械やコンピューターの操作を可能とする。

2019年10月、米ピッツバーグ在住のNathan Copeland氏は、脳にインプラントした電極を通じて、「Final Fantasy XIV」で遊んだ様子を動画に収め、世界に公開した。彼は2004年に自動車事故で半身不随になり、ロボットアームを動かすために電極を脳に埋め込んだ。

その後、ピッツバーグ大学でBCIを4年間学び、脳からの信号でゲームの中のキャラクターを動かすことに成功した。まだできるのは簡単な操作に限られるとのことだが、BMIの可能性の片鱗を見せた事例だと言えるだろう。

日本は「ニューロマーケティング」領域が中心

ニューロマーケティングとは、製品を使用したときなどの脳の状態を計測し、その反応を商品開発やデザインなどに応用するもの。ニューロマーケティング領域に関しては、すでに日本でもさまざまな企業で取り入れており事例に事欠かない。

最近では資生堂が、脳血流反応測定を用いた使用感の評価法を開発したと2019年10月に発表した。口紅を塗った時の使用感が、硬過ぎる・柔らか過ぎるといったように期待と異なる使用感だったか、それとも期待通りの使用感だったかを、脳の血流量によって判定し、商品開発に生かすというものだ。

個別の事業会社だけでなく、例えば市場調査を行うニールセンでもニューロマーケティングを取り入れている。2019年5月には、ニールセンは、日本にニューロサイエンス拠点を設立したと発表した。これまでのアンケートによる調査だけでなく、脳波や生体反応などの計測により、消費者が言語化できない無意識の反応をデータとして集め、より精度の高いマーケティングを実現する目論見だ。

「日本では、世界に比べてニューロマーケティングに偏重気味」だと平井氏は話す。その理由は、手っ取り早くビジネスになりやすいということのようだ。

「一家に一台、脳波計」の時代へ

2019年9月末に、東急不動産が新オフィスの取り組みを紹介するプレスリリースを出した。そこでは、従業員を対象に実証実験を行うとして、脳波測定のヘッドセットを着けて働く社員の様子が写真で紹介された。

これは、快適に働ける、あるいは生産性を高められるオフィス環境はどのような環境かを探るため、つまり「ニューロマーケティング」の一環として行った実験だった。

しかし、これを報じたメディアの記事を読んで「会社が社員の気持ちを把握・管理しようとして行ったもの」と誤解され、SNSで「ここまで管理されるのは嫌だ」「ディストピア」などといった拒否反応が湧き起こってしまったのだ。

メディアシークの平井氏も、Myndliftに関して「危険はないのか」と聞かれることがあるという。「Myndliftに関しては、脳に刺激を与えるということはなく、あくまで脳波を計測して脳の状態をアプリで見える化するだけで、もちろん危険はありません。ただ、日本ではまだ、脳からデータを取る、あるいは脳に直接アプローチすることに『恐れ』のようなものがあるのかもしれません」と平井氏は続けた。

「ただ、日本では『恐れ』が先に立っている状況ですが、海外ではブレインテックの研究がどんどん進んでいます。そして今後、海外からさまざまなプロダクトやサービスが日本へ入ってくるでしょう。それらは、実際に何らかの『効果』があるものですから、いずれブレインテックから享受できるメリットが『恐れ』を上回り、需要の大きい分野から少しずつ日本でも浸透していくのではないかと見ています。そう遠くない将来、一家に一台、脳波計があって、毎朝脳の状態をチェックして、アプリから助言を受けたり、トレーニングしたりする時代がくるのだろうと考えています」(平井氏)

平井 祐希
株式会社メディアシーク コンシューマー事業部 チームリーダー
2016年、東京大学文学部を卒業後、株式会社メディアシークに入社。2017年より累計3,000万ダウンロードアプリ「アイコニット」のマーケティングと新規事業ブレインテックを担当。「ブレインテックを世の中に広めていく」ことをミッションとして掲げており、2019年11月には中国・深圳を訪れブレインテックの現状を視察するなど海外動向にも常にアンテナを張っている。

取材・文:畑邊康浩

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