小売や交通などAIの活用によって変革が想定される分野は多岐にわたる。その中でもヘルスケア領域におけるAIの社会的・経済的インパクトは特に大きなものになる可能性がある。

診断精度の向上、疾病予測、新薬開発の加速などによって人々の健康状態が向上し、寿命が伸びることが想定されるからだ。このような状況が実現すると、医療コストの大幅削減、長寿社会の到来、それにともなう新市場の台頭など社会・経済にさまざまな変化が起こることが考えられる。

現時点からこうした状況が実現するまでどれほどの時間を要するのかは分からないが、この分野のキープレーヤーたちの動向を知ることで、ある程度の予測は立てられるかもしれない。

この点で、2019年9月10日に発表された米No.1病院メイヨー・クリニックとグーグルの10年に及ぶ戦略提携は、注視すべき動きといえるだろう。ヘルスケア業界トップとテクノロジー業界トップの提携とも呼べるこの動きは、どのような変化をもたらすのだろうか。

年間130万人が訪れる米No.1病院メイヨー・クリニックとは

日本ではあまり知られていないメイヨー・クリニック。しかし、米国ではこの30年近く病院ランキングトップ(1位または1位に近い順位)を維持し続ける名門病院として広く知られる存在だ。米国以外でもその知名度は高く、毎年140カ国から患者が訪れるという。米国国内と海外からの来院者数は年間130万人に上る。

メイヨー・クリニックは、1864年ミネソタ州ロチェスターでイギリス系アメリカ人の医者・化学者だったウィリアム・ワロー・メイヨー氏が始めた診療行為をきっかけとして発展した病院。現在では医療サービスだけでなく、教育や研究にも力を入れ、6万人を超えるスタッフを抱える巨大な医療グループとなっている。

U.S News & World Reportが毎年発表している病院ランキングでは1位の常連。27年以上に渡り上位にランクイン、米国トップの病院として評価され続けている。最新ランキング(2019〜2020年版)でも1位だった。

最新版トップ5には、2位マサチューセッツ・ジェネラル病院、3位ジョン・ホプキンス病院、4位クリーブランド・クリニック、5位ニューヨーク・プレスビティリアン病院がランクイン。

このランキングの構成要素は、がん治療、循環器・心臓関連手術などに関するハードデータ、眼科や精神医学に関する専門家による評価、心臓バイパス手術や人工膝関節置換術に関するパフォーマンス評価が含まれている。

主に専門治療・手術を必要とする患者が参照するランキングである。

米国No.1の病院メイヨー・クリニックにはどれほどの医療スタッフが働いているのか。

メイヨー・クリニックのウェブサイトによると、医師・研究者の数は4,878人。事務・医療補助スタッフは6万人以上。計6万5,000人以上が働いているという。研究にも力を入れており、年間研究予算は6億6,000万ドル(約712億円)。4,000人を超えるフルタイム研究者が日々研究を行っている。

メイヨー・クリニックはこの数年、電子カルテシステムの構築・統合に注力してきた。年間130万人もの患者が訪れるため、膨大な医療データが発生する。

それらを「Epic」と呼ばれる電子カルテシステムに統合しようという試みを2017年から実施してきた。ミネソタ、ウィスコンシン、ロチェスターなどグループ各施設のデータベースを構築・統合し、2018年10月に完了したことを発表している。

地元メディアによると、Epicプロジェクトには15億ドル(約1,620億円)が投じられたという。

メイヨー・クリニックCIOが語るヘルスケアAI戦略

冒頭で述べたように、このメイヨー・クリニックは2019年9月10日、グーグルと10年に及ぶ戦略提携を締結したことを発表。

メイヨー・クリニックの医療データをグーグル・クラウドに保管すること、またクラウド・コンピューティングを活用しAI研究を加速させることなどが盛り込まれている。


メイヨー・クリニックウェブサイト

9月10日の発表では戦略提携の詳細は述べられていないが、9月16〜18日にシリコンバレー(サンタ・クララ)で開催されたヘルスケアテック・イベント「Health2.0」の基調講演で、メイヨー・クリニックの最高情報責任者クリス・ロス氏が同病院のAI戦略の方向性について語っている。

ロス氏は、医療現場におけるITソリューションは現段階では医師にとって使いにくく、多くの医師は電子カルテを嫌っていると指摘。

一般的な企業に比べ、病院に課せられる規制や条件が多く、ITソリューションも複雑になりがちなのが背景にあるからだという。自動化などによって医師をサポートするはずのITソリューションが、逆に医師の負担を増やしているのが問題になっている。

この問題には「Small machine learning(小さな機械学習)」を活用することで対処できるとの予測を展開。音声認識、位置情報、自動通知などモバイルデバイスですでに広く利用されている技術を医療向けにカスタマイズすることで、医師の負担を減らすことができるだろうと述べている。

Small machine learningに期待する一方で「Big AI」に対する可能性にも触れている。ロス氏が語る医療分野におけるBig AIとはさまざまな症状に対して適切な診断を下せるAIのこと。

3年前まではサイエンスフィクションだといわれていたことがディープラーニングの活用などによって、現実にのものになっていると主張している。

たとえば、メイヨー・クリニックの研究者らは2019年9月医学誌Lancetで、ディープラーニングを活用し心房細動を検知するアルゴリズムを開発したことを発表。

心房細動は無症候性の不整脈で、現行の方法ではコストや時間がかかるわりに検知精度が低いことから、検知するのが難しいといわれている。メイヨー・クリニックのチームは、心臓のリズム(洞調律)から心房細動を検知するAIを開発したという。

AIヘルスケアの発展とデータプライバシー問題、新たな法規制が必要に

メイヨー・クリニックの強みは、蓄積された膨大なデータを有することだ。AIによる検知・予測モデルの精度は、データの量と質に大きく依存する。このデータの強みに加え、グーグル・クラウドを利用することによる分析の効率化が見込まれる。この先、上記のような研究結果が増えてくることは間違いないだろう。

今回のメイヨー・クリニックとグーグルに提携に関しては、期待の声だけでなく、データのプライバシーに対する懸念の声もあがっている。米国における医療分野のデータの取り扱いを規定するのは「HIPAA」と呼ばれる法律。

しかしこの法律が制定されたのは1966年と50年以上も前になる。

ヘルスケア分野の発展にはAIの活用が必須だが、AIモデルの開発にはデータが必要だ。この先、米国では医療分野のAI開発促進と同時にデータのプライバシーを確保する新たな法規制の議論が巻き起こることになるのかもしれない。

文:細谷元(Livit