廃人同然だった東大生が“学ぶこと”の面白さに魅せられた。道を踏み外して生きていく、唯一無二の我流人生。

様々な大人の“はたらく”価値観に触れ、自分らしい仕事や働き方とは何か?のヒントを探る「はたらく大人図鑑」シリーズ。

今回は、「大人の学びを科学する」をテーマに、企業・組織における人材開発・組織開発について研究し、自身も学びを続けている立教大学経営学部教授の中原淳さん。日々多くの学生に接している中原さんの口癖は「迷ったら、やれ!」。

進路や人生の岐路で人は及び腰になったりします。そんなとき、「迷ったら、やる」と自ら決めていれば「迷わない」、と多くの学生に勧めているそうです。

中原さんは、研究の傍ら、自己啓発本を1000冊以上読破した経験の持ち主。そのうえで「もう自己啓発本は読まなくて良いですよ、書いてあることはたった一つだから」と楽しそうに話します。そんな中原さんに、自らの道を切り開いて生きていく魅力について聞いてみました。

必死に勉強して東大へ。目的を見失い、抜け殻のような日々

——今、どんなお仕事をされていますか?

中:立教大学経営学部で教授として教育・研究にあたっています。研究内容は、人材開発や組織開発についてです。企業や組織の中で、若いメンバーやリーダーをどのように育てていき、どうやって組織を変えていくか、といったことを研究しています。

——中原さん自身はどのような大学生活を送り、現在のご職業に就かれたのでしょうか?

中:僕は北海道出身なんです。

で、当時、高校3年生の時に付き合っていた彼女が「東京の大学に進学する」と言ってきたんですね。それがきっかけのひとつで、僕も死ぬほど勉強して東大に入学しました(笑)人生の転機は、いつだって、よこしまです。

うちは、それほど裕福なわけではありません。親からは、早稲田・慶應はお金がかかるのでダメだと言われました。「北海道にも大学はあるんだから、北海道の大学でいいんじゃない」とも言われました。正論です。でも、それに僕は、順調に反発する(笑)

それと、当時、信頼していたある高校の先生に「おまえ、(道内の大学にはいって)小さくまとまろうとするんじゃねーよ」と言われました。これも、僕は順調に反発する(笑)
たぶん、先生も、親も、僕の性格を熟知したうえで、そうけしかけたんだとも思います。

でも、大学進学後、彼女とは別れてしまいましたが。人生、そんなものです。

——そうだったんですね。

中:でも、僕は、脳がちぎれるほど勉強しました。で、東大に入った。でも、東大に合格したら、そこでもう“人生の目的”を失ってしまいました。彼女とは別れ、ひとりになってしまいましたし…。大学に入学してしばらくは、ほぼ抜け殻状態のまま、何となく毎日を過ごしていました。ほとんど“廃人”です。

——その後、在学中に何か転機があったのでしょうか?

中:大学に入ったばかりの頃は、地方出身なので誰も友達はいません。今でいえば“ぼっちメシ”を食う毎日でした。大学に行っても、当時注目され始めていたインターネットで、Webページを見て回ったり、自分でプログラミングをしたりしていました。

僕は、“学ぶ意義”“学ぶ目的”を完全に失っていたように思います。

大学2年生になった時、「このままじゃ、一生、廃人確定だな」と一念発起して授業に出向き始めました。たまたま認知心理学関係の授業を受けたら、これがすごく面白いなと思えました。 “人はどのようにして学んでいくのか”というのがテーマでした。

——その講義の、何が中原さんの心を刺激したのでしょうか?

中:その講義を受けた時、「どうして僕の人生は、学ぶということに翻弄されないといけないんだ」と感じたんです。

必死に勉強して学び、東大に入学したのに、入った途端に目的を失って、抜け殻のような日々を過ごしてしまった。これって一体何なんだろう、学びって何のためにあるんだろう、学びって何だろうと思いました。

そこから教育の分野って面白いなと感じるようになり、それまでの廃人同然の自分が嘘みたいに、授業は常に一番前の席のセンターポジションで、ノートを取り始めました。

“学ぶ目的”がわかった瞬間です。我ながら、極端ですよね(笑)

そして、「僕は研究者になりたいです」と、ある先生の研究室を訪れました。

そこからは、大学院生の出席するゼミや研究会に出させてもらったりして、みるみるうちに、研究にのめり込んでいきました。

——なぜ研究職を目指そうと思われたんですか?

中:「研究が好きだった」んだと思います。この面白い世界から離れるのがイヤだった。

あとは、「人と違うことをやってみたい」という気持ちが強かったです

きっとね、あまのじゃくなので、みんなと逆の方向に進みたかったんですよ。みんな就職するのならば、僕は就職しない。研究者になるんだ、と息巻いていました。

今、自宅には、下のような絵がかかっています。僕の人生や性格を端的に物語る絵だと思います。妻が買ってきてくれました。多くの魚が群れをつくって“あちら”に向かうなら、僕は“逆”をゴールにする、ということですね。

ともかく、そこで大学院に進み、しばらく“対話を通した学び”に関する研究を続けていました。

「誰もやっていないことをやろう」人材育成という新しい研究ジャンルを作り出す

——次に転機がやってくるのはいつでしたか?

中:25歳のときに研究所の助手(いまでいえば助教)になりました。その後、博士号を取得しました。研究者としては順風満帆だったと思います。僕の研究者人生は、あのままいけば“王道”を歩めた気もします。

でも、僕は、また道を踏み外します。20歳後半から30歳くらいまでは、「今僕がやっていることって、他の誰でもできるんじゃないか?本当に、俺が、人生をかけてやるべきことかな?」と自問自答し始めました。

——そこからどういったアクションを起こされるんでしょうか?

中:順調に明るく楽しく“道”を踏み外します(笑)

王道の研究領域を離れて、自分で研究領域を作り出そうとしました。それが“企業の中の人材育成”の研究です。

——研究の“王道”ってどういう世界なんですか?

中:伝統的な研究者の社会は“ハイアラーキカルな徒弟制(階層のある徒弟制)”です。

“ハイアラーキカルな徒弟制(階層のある徒弟制)”とは、トップに教授がいて、その下に准教授がいて、たくさんの人でヒエラルキーが構成されているイメージですかね。ドラマでいえば『白い巨塔」を思い浮かべれば良いのではないでしょうか。

研究者にも“エスタブリッシュ企業”と“ベンチャー企業”があるんですよね。“エスタブリッシュ”の世界とは、そういうものです。

僕は、エスタブリッシュの世界に生きることは、選びませんでした。もとよりそういう世界にいなかった、ともいえるかもしれません。鼻つまみ者なので、はじかれた、と言えるかもしれません。いや、はじかれた、はないかな(笑)

まぁ、どっちでもいいんです(笑)

一度きりの人生なので、“他人が作った道”を踏み外したっていいんです。“自分の道”を作ればいい。自分の道で、自分の歌を歌えばいいんです。でも、この生き方を、他人に強制することはしません。僕が自由意志で選んでいる、というだけです。

僕は、その後、“エスタブリッシュな世界”から自分をズラします。途方もなく巨大な世界に末端から入っていくくらいなら、自分で研究のジャンルを作ってしまった方が、オリジナリティを出せると考えました。僕は、完全にベンチャー企業のようなものでした。

そのうえで、問題になってくるのは、「何を研究するか」ということです。「誰もやっていなくて、世の中にインパクトを与えられるものって何かな」と考えた結果、“大人が学ぶ”というジャンルに辿り着きました。これが現在の研究内容に結びついています。

——発想がユニークですね。

中:それまでの研究ジャンルから飛び出したのには、もう一つ、ちょっとした理由があったんです。

——どういったきっかけがあったんでしょうか?

中:僕の妻は、とあるテレビ番組の制作に携わっています。

が、ある時「あなたの書いた論文って一体何人くらいが読むものなの?」って聞かれたんです。彼女の担当している番組は何百万人が見ている人気番組なんですよ。

僕の論文を読むのは、せいぜい50人から100人くらいかなぁと思いました。その時、アカデミックインパクト(学術的に価値あるもの)のあるものと、ソーシャルインパクト(社会に影響を与えるもの)のあるものを、研究として両立できないのかな、と考えるようになりました

——具体的にはどういったものだったのでしょうか?

中:妻の何気ないつぶやきもあり、当時の僕は悩んでいました。その悩みとは、「僕の研究が、明日この世から無くなったとしても、世の中の何が変わるのだろうか?」「おそらく、何も変わらないんだろうな」という寂しさに似た思いです

奥さんの何気ない質問もきっかけになり、アカデミックインパクト(学術的に価値あるもの)のあるものと、ソーシャルインパクト(社会に影響を与えるもの)のあるものを、研究として両立することを目指しました。

当時勤めていた大学で、先輩研究者からこんなことも言われました。「論文を量産するのも良い。でも、自分だけの世界観のある研究をやれ」と。大いに感銘を受けました。

かくして、順調に“道”を踏み外していきます。まぁ、今から考えれば、あのまま進んでいった方が、研究者としては真っ当だったかもしれないですけどね(笑)

——別のベクトルへ進行方向を向けられたんですね。

中:そうですね。

自分で“大人が学ぶこと”や“人材開発”といった新しい研究ジャンルを立ち上げたんですが、最初は誰も相手をしてくれませんでした。「お前は何者だ」と思われていたんでしょう。

人材開発の研究は、企業で働く人のデータがなければ、研究になりません。ということは、企業の方々に、僕の研究に協力することが価値あるものだと認めてもらい、共同研究を行っていく必要があるのです。

僕は、まだ20代後半でした。しかも、企業で勤めた経験もありません。「お前は何者だ」と思われていたのは当然だと思います。

——そこからどのようにしてキャリアを構築していかれたんですか?

中:当時の僕は、新しい研究分野を立ち上げた、いわゆるベンチャー企業の立場。ベンチャー企業にとって一番大切なのは“顧客リストを作ること”なんです。つまり、自分が共同研究を実現したい人々に、僕の研究を知ってもらい、彼らに情報を届け、しかも、様々な試みに巻き込むことが求められます。

そこで、どうやって自分の顧客になってもらえれば良いかと考えた結果、『企業内人材育成入門』という書籍を志を共にする仲間と書き、それを機に人材系のイベントをやろうと思いついたんです。志をともにする研究仲間や大学院生に、恵まれた人生でした。

——どういったイベントを開かれたのですか?

中:ラーニングバーというイベントを行いました。ゲストを呼び、当時で一番新しい組織について喋ってもらうイベントです。1人あたり30分間話していただき、2時間聞けば一通りの知識が身につく、といった内容にしました。

そういったイベントを続けていたら、企業の方にも「この研究ジャンル、面白いな」と感じてもらえるようになり、5年ほどで、様々な企業からお声がけをいただけるようになり、データを取得することができました。

おかげさまで、現在は、いろんな本も出版できるようになりました。本当にありがたいことです。

人生は一度きり。順調に“道”を踏み外せ

——中原さんにとっての、キャリアの転機はいつですか?

中:やはり新しい研究ジャンルを立ち上げた頃ですかね。まだ20代の後半で、結婚する前でした。そのままの道を進んで王道の研究者になっても何の問題もなかったと思います。が、「本当にこのままで良いのか」と考えた時、「人生は一度きりだ。順調に道を踏み外せば良い」と思える自分がいたんです。

——「踏み外しても大丈夫」と思える気持ちの強さは、中原さんが昔からお持ちの性質なのでしょうか?

中:いいえ。僕は元々すごく病弱で根暗な子どもでしたから、そんなにメンタルは強い方ではなかったと思います。

ただ、人生の節目で壁にぶち当たった時に悶々と悩んだ結果、何かしら道を踏み外したり、みんなと逆の道を選んだりすることで今の状況が構築されているので、道を踏み外すことが怖くなくなったんですかね。

自分のキャリア形成で、人とは異なることをすることも“習慣”だと思うのです。“逆張り人生”も習慣になってしまえば、怖くありません。

根暗な性格が、経験のおかげでポジティブコーティングされているのかもしれないです(笑)

——なるほど。後天的なものなんですね。

中:あと僕は、何かを成し遂げる前に周囲に宣言しちゃうんです。「今から○○を始めます」って感じでね。大学受験の時も「俺は東大に行く」って宣言してから勉強を頑張ったんですよ。宣言しちゃえば、あとは後ろを振り向くことなく、ひたすらやるだけ

そうやって、僕は自分を追い込んできました。自分を駆り立てて何かにチャレンジしてみると、意外とすんなりできたりするんです。そして人は一歩ずつ、成長していくのだと思います。

自分のスキルに気づくために「まずやってみる」。そうすれば人は必ず成長していく。

——中原さんが、“はたらく”を楽しむために必要なことはなんだと思いますか?

中:楽しい仕事って、ないと思いますね。

仕事は、自分で楽しくするしかないんです。

自分自身が働くことを楽しめるように、ポジティブな方向に駆り立てていくことが効果的なんじゃないかと。

——どうやってポジティブな方向に自分をもっていけば良いのでしょうか?

中:この逆境を「どうやったら、自分が楽しめるか」に加え、「どうやったら他人も楽しめるか」を同時に考えることでしょうか。

僕は学生にいつも「仕事は、こなすな」と言っています。どんな些細なことをするときでも、「いかに楽しくするか」「いかにあっと言わせるか」を考えて欲しいのです。その対極が「仕事をこなす」という世界観ですね。

——中原さんから見て、学生はどのように見えますか?

中:立教大学経営学部の学生は、みな優秀ですよ。ポテンシャルを持っています。

ただ時折、自信だけが失われている人もいます。そういう学生は、自分が持っている能力・スキル・ポテンシャルに気づいていないことが多いんです。そういう学生には、僕は“舞台”を用意して、そのうえに立たせることをいつも考えています。

スポットライトが当たった舞台で、しどろもどろでも良いから、みんなの前で何かを発表してみる。

そうすれば、舞台を降りた時、必ず一歩、成長しています

最初は「できない」と言っていた学生だって、ステージを降りてみれば「なんだ、できたじゃん」という気持ちになれる。

——「できない」と思い込むのではなく、「やってみればできるんだ」ということに気づけるということでしょうか?

中:そうです。とにかくやってみる。それだけなんです。僕は、研究の傍ら、趣味で、自己啓発本を1000冊くらい読んでいます。でも、自己啓発本って、結局1つのことしか言ってないんですよ。

「やってみよう!やってみなけりゃ、わからない」。以上です!

——学生にも「とにかくやってみよう」という風におっしゃっているんですね。

中:学生に常日頃から言っているのは、「迷ったら、やれ!」ということです。「迷ったら、やる!」と自分であらかじめ決めておけば、迷った時にも、すぐに取りかかることができます。

あとは、僕がたまに使う手があるんですが、学生とイベントをする時、開始直前に突然「お腹痛い、あとは任せた」って帰っちゃうんです。そうしたらその子は、僕なしでイベントをやりきるしかないわけです。

「できない」って思い込んでいても、思い切ってやってみたら、意外とできた。

そこで自分の成長を実感できるんです

——自分の成長を感じられれば、次のステージにもまた挑戦できる、ということですね。

中:そうですね。

何かを発表した後、ステージから降りてきたら、緊張してた分、ホッとするでしょう?

学ぶことって依存症に近いんですよ。

緊張する、やってみたらできた、ホッとする

その一連の流れが快感になって、次もまた挑戦してみたいって思えるようになるんです。

——“はたらく”ことに関するご自分のルールや、これだけは譲れないというような思い、信念などがあれば教えてください。

中:「自分の中から何が失われたら、自分は、自分じゃなくなってしまうんだろう?」と常に考えています。僕の中の最も大切なことは、「自分が学び続けることであり、変わり続けること」だと思っています。

「学びって大事だよ」って言っている自分が、一番学んでいないといけない。その姿勢は常に意識しています。それができなければ、いつでも、僕は舞台から降ります。

——「大人が学ぶ」という研究を続けていらっしゃるからこそですね。

中:だって学びの研究をしている人が、現在進行形で学んでいなかったら説得力がないですよね。学び続けるという気持ちが持てなくなったら、この道を進んでいくのはちょっと厳しいですね。

——“はたらく”を楽しもうとしている人へのメッセージをお願いします。

中:何度も言うけど、「迷ったら、やれ」です。あらゆる自己啓発の結論は「やってみる」、これに尽きます。特に、「自分は何をやりたいかわからない」って悩んでいる人は、何かをやってみてください。

人間は、「これは違うかも?」という違和感を覚え、差異を感じることでしか、「本当にやりたいこと」はわかりません。だから、やることに悩むよりは、やったほうがいい。いろんなことをやれば、違和感を感じます。そういう違和感のなかから、本当にやりたいことを見つけていけばいいのだと思います

「もしかしたら、これがわたしの生きる道」かもしれない、と人が認知するためには、いろいろなことに取り組んでみて「これは違うな」と違和感を覚えなければならないのです。

極端なことを言えば、やりたくないことや嫌なことでも、とにかくやってみてください

学生時代ってそういうことができる貴重な時間です。

もちろん私も、皆さんの世代にはまだまだ負けません。

年齢は43。いわゆる“オッサン”に片足をつっこんでいますが、マインドはあの頃のままです。

オッサンとは“心の持ちよう”だとも思います。それは性別も、年齢も関係ないと思います。

いくら年齢は若くても、心は“オッサン”な若者もいます。

一方で、いくら年齢を重ねていても、心は“若者”のシニアもいます。

あなたの心を“オッサン”にしないでください。

中原 淳さん(なかはら じゅん)
立教大学 経営学部教授(人材開発・組織開発)
東京大学教育学部卒業、大阪大学大学院 人間科学研究科、メディア教育開発センター(現・放送大学)、米国・マサチューセッツ工科大学客員研究員、東京大学講師・准教授等を経て、2018年より現職。「大人の学びを科学する」をテーマに、企業・組織における人材開発・組織開発について研究している。

転載元:CAMP
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