AI開発競争で米中追う英国の秘策「アラン・チューリング研究所」が果たす役割

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貿易戦争で注目が集まる米中関係。この2国はAI開発競争においてもしのぎを削るライバル関係であり、他国を尻目に覇権競争に興じている。実際、AI関連の話題は米中発であることがほとんどだ。

一方、米中以外の国々でもAIの戦略的・経済的・社会的な重要性が認識され、国を挙げての取り組みを始める国々が増えている。たとえば、ドイツでは2018年末、AI産業促進に向け30億ユーロ(約3,600億円)の政府予算が可決。

フランスでは2022年までに、AIハブ構築に向け15億ユーロ(約1,800億円)が投資される見込みだ。またEU全体では2020年までに200億ユーロ(約2兆4,000億円)を投じるべきとの声も上がっている。

こうした中、投資だけでなくすでに具体的な取り組みを始め、米中との差を埋める動きを加速している国がある。世界の中でも比較的長いコンピュータ・サイエンスの歴史を有している英国だ。

PwCのレポートによると、英国におけるAIの経済的恩恵は2030年にはGDPの10%に相当する2,320億ポンド(約30兆円)に達する可能性があるという。経済の低迷に終止符を打つため、英国政府はAI産業を促進するさまざまな取り組みを始めている。

2019年7月、同国中央銀行イングランド銀行が、新50ポンド紙幣に「コンピュータ・サイエンス/人工知能の父」と呼ばれるアラン・チューリングの肖像を採用することを発表したが、これは英国がAI産業促進に本気で取り組む意思のあらわれとも見て取ることができる。

スタートアップハブの醸成やAI関連投資の呼び込みなどの取り組みが実施されているが、英国のAI産業発展において人材・知識の核になるとして注目されているのが、上記アラン・チューリングの名を冠したAI研究所「アラン・チューリング・インスティテュート」だ。

いったいどのような研究所なのか。英国AI産業の要となることが期待されるアラン・チューリング・インスティテュートの実態を探ってみたい。

「AI/コンピュータ・サイエンスの父」アラン・チューリング

アラン・チューリング・インスティテュートについてお伝えする前に、アラン・チューリングがどのような人物だったのかについて紹介したい。

1912年、ロンドンに生まれたチューリング。幼少期から数学の才能の片鱗を見せ、15歳の頃に微積分の基礎を習わずに、数学の高度な問題を説いていたという。16歳でアインシュタインの論文に出会い、またたく間に理解したという逸話もある。

その後、ケンブリッジ大学で数学を学び、最優等の成績を収め、プリンストン大学で博士号を取得。プリンストン時代には、数学だけでなく暗号理論や電子回路についても研究していたという。


アラン・チューリング像

チューリングが偉大な科学者と称される理由は大きく2つある。ナチス・ドイツの暗号「エニグマ」の解読に貢献したことと機械に知能があるどうかを測定する「チューリング・テスト」を考案し、コンピュータ・サイエンス/人工知能分野で先駆的な役割を果たしたことだ。

一方、同性愛者だったチューリングは、そのことが明るみになると当時の政府から迫害を受けるようになる。1952年には、当時19歳だった青年と性的関係を持ったとして有罪となった。

英国では1967年まで同性愛行為は違法だったのだ。禁固刑の代わりに化学的去勢処分を受けたチューリングだが、1954年にシアン化カリウムを服用したことが原因となって42歳の若さでこの世を去った。

その後、チューリングへの迫害に対する非難の声が高まり、2009年英政府は謝罪、さらに2013年には有罪となったチューリングへ恩赦を与えるまでに至っている。AI時代の深化に伴い、英国にとってチューリングの業績が如何に重要であったかが認識されてきていることのあらわれと見て取ることができる。

AI・データサイエンス分野の大学間連携を強化する研究機関

この流れの中、英国政府によって2015年に設立されたのが「アラン・チューリング・インスティテュート(ATI)」だ。

英国の産学分野の代表者らによって構成される科学技術会議(CST)が2013年に英国首相向け発信した書簡「the Age of Algorithm」の中で、ビッグデータ・AIの重要性が無視できない時代において、国を挙げての取り組みが必要になるとの指摘がなされ、これが発端となって設立された研究組織となる。


アラン・チューリング・インスティテュートのウェブサイト

ATIが目指すのは、AI・データサイエンス分野の研究促進、同分野のリーダー育成、市民ダイアログ促進の3つ。

これらの目標実現に向け、英国内の主要大学が具体的な役割を果たすことになる。ATI創設時に名を連ねたのがケンブリッジ大学、オックスフォード大学、エジンバラ大学、UCL、ウォーウィック大学の5大学。いずれも数学やコンピュータ・サイエンス分野で世界的に高い評価を受ける大学だ。

さらに2018年には、ロンドン大学クイーンメアリー、リーズ大学、マンチェスター大学、ニューカッスル大学、サウサンプトン大学、バーミンガム大学、エクセター大学、ブリストル大学、工学・物理科学研究評議会が参加し、そのネットワーク規模を広げている。

大学間の連携を強化することで、AI・データサイエンスの中でも特にどのような分野に注力すべきか、その問題意識が共有されやすくなる。また、研究成果や知識の共有が進むことも考えられるだろう。

さらにATIではフェローシップの仕組みもあり、国内外から優秀な研究者を誘致する体制も整っている。ATIのドキュメントによると、博士号過程のトレーニングプログラムには450人以上の応募があり、そん中から選ばれた70人がトレーニングを受けているという。

主要な研究課題は「8つのチャレンジ」として明示されており、その課題解決向けた研究が進められている。

たとえば、チャレンジの1つとして挙げられているのが「AIによる医療改革」。AIを活用し、診断精度の向上、医療サービス需要の予測、感染症予測モデルの構築などを目指す。

「政府・公共イノベーション」もチャレンジの1つとして挙げられている。政府が有する大量のデータを活用し、公共サービスのパーソナライズや公共政策の優先順位・評価に活かすことなどが考えられている。

ATIを通じて、英国の各大学ではAI・データサイエンス人材を育成するプログラムを新設。特に、修士・博士レベルのプログラムが増えているといわれている。

冒頭で参照したPwCのレポートは、英国のAI産業は2030年にGDPの10%に相当する経済効果を生み出すと推計しているが、その大部分はオートメーションや生産性の向上ではなく、パーソナライズによる消費需要の喚起によって生み出されると予想している。

パーソナライズでは、プライバシーや倫理の問題がつきまとうが、ATIはこの問題にも積極的に取り組むことを明らかにしており、他国に先駆けた取り組みが登場することも大いに考えられるだろう。

数学やコンピュータ・サイエンスで積み重ねてきた歴史的資産をAI産業の発展にどう活かすことができるのか。ATIの取り組みは各国にとってもベンチマークとなるはずだ。

文:細谷元(Livit

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