多くのサラリーマンにとって、”革靴”は最も身近なビジネスアイテムの一つだろう。様々なことが起きる日々の中で、長時間苦楽を共にする相棒と言ってもいい存在だ。
皆さんは、そんな相棒を時に”靴磨き”というかたちで労っているだろうか。靴磨きと言えば、ひと昔前までは、年配の男性が主要駅の片隅で営業するスタイルが主だった。だが近年では、若い男性に限らず女性まで、靴磨きの仕事をしたいと考える人が増えてきているらしい。
靴磨き職人の世界を「厳しいけど、楽しい世界」と語るのは、靴磨き専門店『GAKU PLUS TOKYO』オーナーであり、靴磨き職人である河村 真菜(かわむら・まな)さん。
靴磨きの魅力と、そこに賭ける覚悟について、彼女に話を訊いた。
半年間断られ続けても飛び込んだ”靴磨き職人”の世界
——靴磨き職人を目指そうを思った”きっかけ”について、教えてください。
河村:24歳の時に出会った、『イタリア人の働き方(内田洋子著、光文社新書)』という本が、靴磨き職人に興味を持つきっかけでした。その中で、女性靴磨き職人で、子育てもするロザリーナ・ダッラーゴさんという方が紹介されていました。
それまで企業の受付としてOLをしていたのですが、彼女の生き方や靴磨きという世界に触れて当時衝撃を受けたんです。靴磨きという仕事があることも驚きでしたし、女性が一人で起業しているという点も、勇気付けられました。
居ても立ってもいられず、半年後にロザリーナさんに会いにイタリアまで行きました。そこから、“この世界で生きていこう”と決意しました。
——経験もツテもない中で、どのように仕事をスタートさせたのでしょうか。
河村:靴磨き職人になるために、まずは情報収集から始めました。
実際に調べてみると、地元名古屋で靴磨きを専門にしているお店を見つけました。ちなみにそこは、今私がお店を出している“GAKUPLUS”でした。
当時、従業員募集とは書かれていなかったので、断られるだろうなとは思ったのですが、問い合わせてみたら案の定断られてしまって。
その時に「東京ならたくさんお店があるよ」とアドバイスを貰ったので、次に東京にも足を運んでみました。でも見に行ったお店はどこもオペレーションが完成されていて。
私は、完成されたところで働くよりも、自分でゼロから仕組みを作りたいなと思ったので、また名古屋に戻ってGAKUPLUSに再度頼み込みました。合計3〜4回くらいは、断られたと思います。
諦めきれずに半年間くらい連絡を取りつづけて、「修行」というかたちでこの世界に入らせてもらうことが出来ました。
——靴磨きの修行とは、どのようなことを行うのでしょうか。
河村:修行ではまず、革に関する勉強から始めます。
紳士靴の歴史やブランドの種類、シュー(靴)ケアとは何か、といった基礎的な事柄を学びます。なので、最初から靴を触ることはありません。知識を十分に蓄えてから、実践に移ります。
なぜ知識から入るのかと言えば、靴磨きというのは、失敗が出来ないからです。万が一、お客様の靴の色に合わない色で染めてしまったり、傷付けてしまうと取り返しが付きません。そのため、革に関する十分な知識を頭に入れてから、ケアを行うことが必要になるのです。
時代とともに変化する靴磨きへの価値観
——河村さんのお店には、普段、どのような方がいらっしゃいますか。
河村:うちのお店では、男性のお客様が9割を占めますね。
年齢層は幅広く、20代から50代の方まで、様々なご要望で来られます。先日も、80代の方がオーダーシューズを作りに来て下さいました。
——非常に幅広いですね。靴磨きの需要は時代によって変わらないものなのでしょうか。
河村:そうですね。基本的に革靴は、継続的にケアをしていかなければいけないものなので、需要自体は無くならないと思います。
ただ靴磨きに対する考え方は、少しずつ変化してきているな、と感じます。
以前は安価なスタンドなどで、短時間で靴磨きを仕上げたい、というお客様が主流でした。でも最近では、靴磨き店に事前に予約をして、しっかりと時間を取ってご来店される、というお客様が増えています。
趣味で靴磨きを始める方も増えてきており、靴磨きをする側というよりは、サービスを受ける側の意識が変わってきているのかな、と思います。
——なるほど。河村さんのように、女性で靴磨き職人として働いている方は、どのくらいいらっしゃるのでしょうか。
河村:全国的に見ても、かなり少ないと思いますね。
少なくとも名古屋に居た頃は、女性の職人さんには一人も出会えませんでした。東京でも数人知っていますが、片手で数えられるくらいです。
“靴磨き職人”に向いているのは、毎日続けられる人
——靴磨き職人になるために、資格などは必要ですか。
河村:靴磨きに関する専門的な資格は、必要ありません。
本やインターネットを使って、独学で学ぶ人もいれば、副業で始めるという方もいらっしゃいます。なので特別な訓練を受けなくても、靴磨き自体は、すぐに誰にでも始められる、という特徴はあります。
ただ、私自身が独学ではなく、師匠となる人に弟子入りしたことで気付いたことがあって。やはり自分一人での勉強だけだと、文字や動画だけではインプットに限界があると感じました。また、お客さんと直接話すことやケアをする中で、初めて知ることもたくさんあります。
例えば、インターネットに情報が載っている靴と同じブランドや型であっても、お客様がこれまで履いてきたシチュエーションなどによって、靴磨きに必要な要素は大きく変わってくることがあります。そうした場合に、臨機応変に対応していかなければいけませんが、普段から訓練していなければ中々すぐには出来ません。
なので、これまでどのくらいの靴を磨いてきたのか、ということが職人としての厚みが出る、一つの要素なのかなと思います。
——では、靴磨き職人に必要な“素質”とは、何でしょうか。
河村:それは私自身も、知りたいところではありますね(笑)
でも、靴磨きに向いている人は、毎日続けられる人だと思います。よく人から、「毎日家でも1時間靴磨きをしているの?」なんて言われますが、自宅で出来る靴のケアは15秒ブラシで掃くだけで終わります。
一方で、その15秒が靴の寿命を大きく変えることになります。革靴は動物の革で作られているので、生き物の肌と同じです。革の表面に埃が付着していると、靴の乾燥を進めてしまいます。
そういった小さなケアを、毎日気付いてやり続けられるか。忙しい日常の中で、5分でも10分でも、靴のことについて考えられる人がプロじゃないかなと思いますね。
——ブラシで掃く他に、日常で出来る靴のケアはありますか。
河村:皆さんは、あまり靴のストックを持っていらっしゃらないかもしれないですが、月曜日に革靴を履いたとしたら、それを次に履けるのは木曜日です。
特に男性は、この時期になると、1日履いただけで靴の中で大量の汗をかきます。その湿気によって菌が繁殖し、臭いやカビの原因になったりします。そうならないためにも、一度履いたら最低48時間は、乾燥させておくことが大切です。
ルーティン用の革靴は、いくつか持っていてもいいかもしれませんね。
100年続く伝統に関われる喜び
——河村さんがこれまでこの仕事をやられてきて、感じられた壁や困難などはありますか。
河村:女性として働く難しさは、感じることがあります。
例えば、革靴を履く方の多くは男性です。もちろん革靴に関する勉強は多くしていますが、自分自身は男性の気持ちを想像するしかないので、男性の靴職人に比べて努力しなければいけない点は多くあると思います。
あとは体力面での問題です。たまに百貨店などに呼んでいただくことがあるのですが、1足1時間かかる作業を、1日に15足以上担当することもあるので、気持ちより先に体力の限界が来てしまうことがあります。そういった難しさはありますね。
——逆に靴磨きをしていて、やりがいや、楽しさを感じる瞬間は、どんな時ですか。
河村:お客様に喜んでいただく時が、一番嬉しいですね。
先日、ある男性から珍しいご依頼がありました。亡くなった父が使っていた革靴を、サイズが一緒だから修理して履きたい、というご相談内容でした。
その靴は現役時から30年程度経過したものでしたが、修理をしてケアもしたら、その方が非常に喜んでくださって。その後も、ご自分で靴磨きをして、長く使い続けていただいていると聞いて、とても嬉しかったですね。
一般的に靴は、消耗品だと思われがちです。ですが、革靴に限って言えば、100年以上スタンダードなデザインが変わっていないので、時代が変わっても修理することが可能です。なので、自分もその続く伝統の一瞬に関われているなと感じる瞬間が、まさにやりがいですね。
自分の経験や技術を伝えられる場所を作ることが目標
——河村さんのような、靴磨き職人に憧れる方も多いと思います。そんな人たちは、どうしたらいいのでしょうか。
河村:兎にも角にも、まずは自分で靴を磨いてみることですね。
自分の靴を磨く習慣を付けることで、革に対する理解を深めることが出来ると思います。
あと私がおすすめするのは、自分の知人や友人に頼んで、靴を磨かせてもらうことですね。いきなり全く知らない人の靴を磨くのは抵抗があるかもしれないので、まずは知り合いから感覚を慣らしていくステップを踏むと良いかもしれません。
また、いま実力のある靴磨き職人は皆、数え切れないほどの靴を磨いてきています。磨いた靴の数だけ、スキル的にも、精神的にも強くなれると言えるかもしれません。なので、どんどん自分でチャンスを見つけて、経験値を貯めていく姿勢は大切だと思います。
——これから靴磨き職人になりたい人に向けて、伝えたいことはありますか。
河村:とても厳しいけど、楽しい世界だよ、と伝えたいですね(笑)
靴磨きを仕事にしたい、という人はたくさんいますが、続けられる人は少数です。靴磨き職人は、ずっと靴を磨いてさえいればいいと思われがちですが、実際はそれ以外の業務が半分以上を占めます。靴を磨くことだけに価値を感じていると、必ずギャップは生まれてきてしまうと思います。
そんな中でも、楽しみながら続けられる人には、ぜひこちら側の世界に来て欲しいですね。
——河村さんご自身の、今後の目標はありますか。
河村:靴磨きという仕事は、昔から男性の職人が多い世界です。ですが、最近では私のように女性で靴磨きをしたいという女性がたくさんいて、一緒に働きたいと毎月のようのお問い合わせをいただきます。
そういう人たちに対して、私の経験や技術をしっかりと伝えられる場所を作りたい、と思っています。そして最終的には、その子たちと一緒に働けるような環境を作れる経営者にもならなければ、と考えています。
そうして、靴磨きの楽しさを日本中に広められたらいいですね。
<お問い合わせ先>
河村真菜 公式Instagram
取材・文:花岡郁