2019年4月、AIストア「インテリジェント・リテール・ラボ」を公開し注目を集めた米最大の小売チェーン、ウォルマート。このところ「革新的」なイメージを普及させるための施策を矢継ぎ早に公開している。
2019年6月にはウォール・ストリート・ジャーナルなどが、ウォルマートがVRを活用した中間管理職昇進試験を実施していると報じ話題となった。
ウォルマートの管理職昇進試験はこれまで筆記テストと面接によって実施されてきたが、VRを活用した評価システムに置き換えるというのだ。
具体的にどのようなことが行われるのか。
まずVR試験を受ける社員はスタンドアローン型のVRヘッドセットOculus Goを装着する。ヘッドセット内で再生されるのは、あらかじめ撮影された360度動画だ。シチュエーションごとのコンテンツが再生され、それぞれの場面で選択肢が示される。その選択した結果によって、社員の知識やマネジメントスキルを評価する仕組みとなっている。
たとえば、対応が難しい客が来店したときの対処方や成績が振るわない部下への対応、また商品が売り切れていたときの対応シミュレーションなどが実施される。
このVR昇進試験は、ウォルマートが米国で展開する全4,600店舗で実施されるという。
ウォルマートのPR責任者であるミシェル・マラショック氏はワシントン・ポストの取材で、VRによる評価システムを導入することで、内部評価で起こりがちなバイアスを減らすことが可能になる説明。また、VR評価システムでは、管理職に必要なリーダーシップを測るだけでなく、他のスキルを評価することもできるため、評価プロセスの中で、管理職以外のポジションの適正も見分けることが可能だと述べている。
ウォルマートではVR評価システムを2019年4月に導入し、これまでに社員1万人の評価を実施してきたという。
ウォルマートがこれほど大規模にVRを導入した理由はどこにあるのか。VRはゲームやエンタメ分野での活用が進んでいる印象が強い。コーポレート分野での導入事例は増えているものの、試験的な運用が多く本格的な活用はまだ限定的というイメージがある。
ウォルマートがここまでドラスティックに昇進試験のあり方を変えた背景には、同社が2017年からVRを取り入れた社員トレーニングを実施してきたという経験・知見の積み重ねがあると思われる。
ウォルマートのVRトレーニング(STRIVRウェブサイトより)
また、そのVRシステムのデザインを担当してきたシリコンバレーのVRスタートアップSTRIVRの存在も見逃せない。ウォルマートの昇進評価システムの抜本的な変更は、STRIVRへの絶対的な信頼があって初めて可能となるからだ。
ウォルマートのVR攻勢支えるシリコンバレー・スタートアップSTRIVR
2015年に設立されたスタートアップSTRIVRが、なぜ米最大の小売チェーンからここまでの信頼を得ることができたのか。
理由の1つとして挙げられるのが、共同創業者のジェレミー・ベイレンソン氏の存在だ。
ベイレンソン氏は起業家であるとともに、スタンフォード大学でバーチャルインタラクションを長年研究しているVR分野の専門家でもあるのだ。
認知心理学の博士号を持つ同氏はスタンフォード大学で「バーチャル・ヒューマン・インタラクション・ラボ」を立ち上げ、仮想空間・仮想コンテンツが人間の心理にどのような影響を与えるのかについてさまざまな角度から研究を行っている。
スタンフォード大学(「バーチャル・ヒューマン・インタラクション・ラボ」ウェブサイトより)
ベイレンソン氏が特に高い関心を持つのが、仮想空間での経験が人間の「自己」や「他人」の認識をどう変えるのかという研究アジェンダだ。また最近では、教育や健康へのVRの影響についても研究を進めている。
認知心理学などにおけるこれまでの研究とベイレンソン氏らの研究によって明らかになりつつあるのが、イマーシブな空間での学習の方が、テキストや講義といった伝統的な方法に比べ、学習効果が高いということだ。
カナダ・トロント大学の教育研究者Dave Davis氏が、医師の知識・スキル向上においてどのような学習方法が効果的なのかを調べたところ、最も効果が薄いと判断されたのは「講義を受動的に聞くだけ」だった。一方、効果が最も高かったのが、ディスカッションや実地研修、ロールプレイングなどインタラクティブな学習方法だった。他にも同様の調査が実施されたが、同じような結果が得られている。
受動的な読書や講義の受講は学習効果が低く、一方で能動的なロールプレイングなど実際の状況に近ければ近いほど、記憶への定着率も高まり学習効果が高まるということになる。
これらのことから導かれるのは、最も理想的な学習環境とは、学習対象となる「そのもの」を「その場」で経験できる空間のことといえる。医者であれば手術室での本物の手術、店舗マネジャーであれば年末セールで大混雑した店舗でのマネジメントなど。こうしたリアルな状況を何度も何度も繰り返すことで、短時間で知識・スキルを高めることが可能となる。しかし、倫理的、物理的、コスト的な問題から、このようなことを何度も再現するのが不可能であることは想像に難くないだろう。
年末セールは1年に一回しかやってこない。研修でこのリアルな状況を何度も体験させるということは数年かかってしまい、現実的ではない。
VRであれば、一度そのような状況を再現したコンテンツをつくってしまえば、何度も繰り返し視聴しトレーニングすることが可能となる。VRによるトレーニングを繰り返せば、その状況に慣れるだけでなく、その状況下における最適行動のイメージを持つこともできるようになる。イメージを持てれば、パフォーマンスを高めることも可能となる。
実際、STRIVRはNBA選手とのコラボレーションで、この仮説の確かさを示すことに成功している。
米プロバスケットボールリーグNBAのデロイト・ピストンズに所属するアンドレ・ドラモンド選手は、フリースローが苦手で有名だった。2016/2017年シーズンのフリースロー成功率は38.6%。NBA全体の平均が75%ほどといわれており、それに比べると大きく劣る割合だ。この苦手を克服するために、ドラモンド選手はSTRIVRのVRトレーニングを導入。仮想空間の中でフリースローが成功した体験を繰り返すことで、試合中でも良いイメージを持てるようになり、フリースロー成功率は大幅に改善。2017/2018年シーズン、ドラモンド選手のフリースロー成功率は前シーズンと比較して20ポイント以上も高い60.5%に上昇したのだ。
VRを使ったフリースロートレーニング(STRIVRウェブサイトより)
学術理論に支えられているだけでなく、このような実績を示すSTRIVRのVR施策。ウォルマートが信頼を置くのも納得できるのではないだろうか。ウォルマートがVRを積極的に取り入れることで、今後他の企業においてもVRを活用した企業研修や人事評価が増えてくることが予想される。
[文] 細谷元(Livit)