バングラデシュが私の先生。元早稲田大職員が実践する“生きた証”を残すはたらき方。

様々な大人の“はたらく”価値観に触れ、自分らしい仕事や働き方とは何か?のヒントを探る「はたらく大人図鑑」シリーズ。今回は、学生時代の旅をきっかけに、海外での支援活動をライフワークとして行っている大野佳祐さん。

早稲田大学の職員を経て、島根県の離島・海士町に移住し、教育コーディネーターとして活動されています。“困っている人の役に立ちたい”という想いを根底に活動される大野さんのこれまでの人生、仕事についてお伺いしました。

19歳での旅がきっかけで海外での支援活動をスタート

——今どんなお仕事をされていますか?

大:島根県の離島・海士町で“教育を核にした地方創生”に取り組むべく、教育コーディネーターという仕事をしています。

——教育コーディネーターというのは、具体的にはどういったお仕事なんでしょうか?

大:これからの時代、学校だけで教育を完結させるのって限界が来ると思うんですね。そこで外部との色々なコラボレーションを教育現場に持ち込んでいくのがコーディネーターの仕事です。

例えば以前、海士町の高校生をブータンに連れて行く企画を立ち上げました。以前の職場である早稲田大学でブータン研究をしている人に色々と相談し、実現させることができました。

——学校内外での教育プログラムを構築されるということですね。

大:学校の先生は授業があるから、外部へ連れ出すっていうのはなかなか難しいんですね。特に公立校では。学校以外のコネクションがある人もそんなに多くないし。

今、文科省も教育コーディネーターの配置を検討していて、これから増えていく職種だと思います。

——ご自身が学生の頃はどんなことに時間を使われていたんでしょうか?

大:海外への一人旅ばかりしていました。

中学の時にブラジルにサッカー留学したことがあって、海外って面白いなと思ったんです。

海外に行くと自分自身が“広がる”感じがして、それで色んな世界を見てみたいな、と思って大学に入ってからアルバイトでお金を貯め、たくさんの国に行くようになりました。

——まずはどちらに行かれたんですか?

大:とりあえず最初はアメリカへ行こうと思っていたんですが、大学の国際課に相談に行ったら、「バングラデシュにトイレを作りに行くプロジェクトがあるよ」と教えてもらったんです。

アメリカに行くより、バングラデシュでトイレ作った方が合コンとかでウケそうじゃないですか?(笑)

そんなノリでバングラデシュに行ってみたんです。

——バングラデシュへの旅がすべてのきっかけだったんですね。

大:当時、まあ思春期の延長というか、自分自身のキャラクターに悩んでる時期で(笑)。バングラデシュに行った時、「あなたはそのままで充分魅力的だから」って言ってもらえた感じがしたんです。人に受け入れてもらい、自分がその善意に包まれているっていう感覚でした。

その感覚を僕に抱かせてくれたことは、今でも宝物に思っています。

——そのバングラデシュのためにNGO団体を作られるんですよね。

大:旅した時に、ある診療所と出会ったんです。年間100~200人がマラリアにかかるような山の中にあって、アメリカの支援で運営されている診療所でした。

その支援が中止になり、診療所が無くなるかもしれないという話を聞き、一緒に旅した10人ほどのメンバーで「僕たちが支援しよう」ということになったんですね。それでNGO団体を立ち上げました。

——そこから資金作りに奔走されるんですね。

大:どうやって資金作りをするのかが長いことネックだったのですが、ある仲間から声を掛けてもらって、チャリティマラソンを一緒にやろうということになったんです。ランニングブームが来る前で、「お金払って走るってどういうこと?」って時代でした。

でもどんどん参加者が増えて、色々なNGOやNPOを巻き込んで、最終的には6千人が走る大きな大会になったんですよ。15年間で1億円くらい資金として集め、その一部を診療所運営に充てていました。

——そこまで大きな大会に成長したんですね!なぜ大会がそれほど多くの参加者を得ることができ、成功されたと思いますか?

大:東日本大震災が起こる前の2000年代って、チャリティ活動というのはあまりメジャーではなかったように思います。

しかも“楽しくやる”ということと、ちょっと遠い存在でした。

でもそれを、「楽しんで人の役に立つって最高じゃん」「運動不足を解消して、ついでにそれが誰かの役に立つってステキ!」というような、いわゆる“エンタメチャリティ”みたいなイメージをみんなで作っていったのが大きなポイントだったんじゃないかな、と思います。これは推測ですが、僕たちがそうやって楽しく大会を企画していく過程も、色んな方にきっと楽しそうに見えていたんじゃないかな、と。

——当事者が楽しみながらチャリティ活動をするという新しい一面を提示したんですね。

大:6千人が走るとなると生半可なことはできないので、東京マラソンのボランティア運営に関わるなど、土日も関係なく動いていました。

その時はすでに大学を卒業して働いていたんですが、朝まで打ち合わせして寝ずに仕事に行くなど、仲間と過ごした時間は今でも青春の1ページというか、良い思い出です。人脈もかなり広がりましたしね。

バングラデシュに小学校を設立、大学職員を辞め島へ移住

——そこからバングラデシュに小学校を設立されるんですよね。

大:小学校を作ったのは31歳の時です。

社会人になっても診療所支援を続けていたんですが、現地NGOの政権交代で運営を諦めざるを得なくなって。

200万円くらいの予算があったので、何か始めようと思い、識字率が低くて死亡率が高い場所に実際にリサーチに行きました。そこで人を紹介してもらい、1年後の夏にやっと交渉がまとまり、小学校設立に着手しました。

——それも大学職員として働きながらの活動ですよね。仕事、もしくは趣味、どういった感覚なのでしょうか?

大:海外での支援活動は大学生時代からやっているので、人生の順番としては支援活動の方が先にやっていたことで、仕事の方が後から始めたことなんですよね(笑)

だから、ライフワークみたいな感じです。これで稼いでやろうとか、名前を売ろうとかもちろん全然なくて、ただ目の前にやることをやっていた、という感覚かな。

——大野さんにとっての“キャリアの転機”はいつでしょうか?

大:大学職員時代に、“大学生が企業の課題解決を実践する”というプロジェクトと“入学時に先輩が後輩をサポートする”という企画を仲間と立ち上げたことです。

ゼロイチでプロジェクトをつくる喜びと難しさ、メンバーへの感謝を同時に経験することができました。最初に失敗したことも、思い返せばすごくいい経験ですね。

あとは、早稲田大学の職員を辞めた33歳の時じゃないでしょうか。

——なぜ職員を辞められ、海士町への移住を決められたんですか?

大:独立したいなとは思っていたんですが、「辞めて仕事があるのか」「食いっぱぐれたらどうしよう」と長いこと踏み出せずにいたんです。

でも人事異動で、「管理職になるかも」という話があり、その場で「辞めます」と伝えていました。自分でもあっさりその言葉が出たのが不思議です。

——その時はどういった心情だったんでしょうか?

大:お話をいただいた時は、評価されていることがわかって嬉しかったですよ。

でも、「このままこの仕事を続けていっても、これ以上でも以下でもないんだろうな」というその先の未来についての予測もついていた感じでした。

この先に進むとこの先辞めにくくなるだろうな、と思ったので「一旦ここらで辞めよう」と思ったんですね。

——そこから海士町へ移られる経緯を教えていただけますか?

大:最初は、東京で教育系の会社を作りたかったんですよね。故郷のない子どもたちに故郷を作る、みたいなことを職業にしようと思っていたんです。

その準備段階として地方に営業に行っていて、その中に島根県の海士町がありました。

そこで町長や教育関係の仕事をしている方々に「君がやりたいこと、ここでやったらいいんじゃない?」ということでお声かけいただいたんです。

——お誘いを受けた時はどう思いましたか?

大:当時、僕の課題として、公教育の現場に入るのが難しいというのがありました。学校現場に入れてもボランティアに留まってしまい、報酬を得ることができなかった。

そこをどうやって突破しようかと悩んでいた時にそのお話をいただいたので、思い切って移住を決めました。

“誰かの役に立ちたい”という想いが自分の根底にある

——大野さんが、はたらくを楽しむために必要なことはなんだと思いますか?

大:自分が成長できる環境を自分で選び、その成長が何かの役に立つことかなと思います。そのためには少し難しいなと思えることを目標にしたり、主体的に挑戦するようにしています。その過程で苦労や苦悩もありますが、それも楽しみに変えていますね。

——具体的にはどういったことでしょうか?

大:例えばバングラデシュに小学校を作るのも、「本当にできるの?」っていう反応も多かった。でも僕は「なんとかなる」と思っていたんです。

ツテもない、現地がどういう状況かもわからない。

それでもやってみると、難しい側面もたくさんあるけど得たものの方が多かったんです。

そういう経験を重ねて、どんどんレベルが上がってきているように思います。

——大野さんにとっての、はたらくとはなんですか?

大:自己表現の一環くらいに考えています。

少し大げさな言い方をすると、“自分の生きた証”。

大それた仕事をしているわけじゃないですが、世の中に対する自分の存在意義を感じられることだと思います。

——大野さんの仕事に対する信念は何でしょうか?

大:“困っている誰かの役に立ち、それでお金を稼ぐこと”というのは、常に自分の根底にあります。

仕事じゃない部分での生き方も含めてですね。

100億円売り上げている会社の業績を110億円まで上げることにはそれほど興味がありません。

それより、困っているけどやる人がいない、誰かこれをやってくれると助かる、という人がいる場所で活動していきたいと思っています。

——はたらくを楽しもうとしている方へのメッセージをお願いします。

大:取り急ぎ10万円を貯めて海外で一人旅してみてはどうでしょう?

世界は広いです。いろんな価値観に出逢ってみるといいと思いますよ。

大野 佳祐さん(おおの けいすけ)
島根県立隠岐島前高校 学校経営補佐官
19歳のときのバングラデシュへの旅をきっかけに、海外での支援活動をスタート。大学卒業後は早稲田大学に職員として勤務。2014年、海士町に移住し、隠岐島前高校魅力化プロジェクトに参加。教育のより良い場作りを志し、様々なプロジェクトを手掛けている。

転載元:CAMP
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