人工知能(AI)がウォール街、金融業界における人間の役割を根本的に変えつつあるというニュースは以前、「AIリストラ」というセンセーショナルな言葉で世界を駆け巡った。
金融、医療など、私たちが予想していた以上に人工知能と機械学習は多くの分野で活用されるようになっているが、法律の世界も例外ではない。
電子政府で知られる北ヨーロッパの国エストニアでは、農業補助金審査や求職者への仕事の紹介など、すでにAIの活用が多様な公的分野で推進されているが、同国における最新のプロジェクトは、AI搭載の「ロボット裁判官」の設計だ。
エストニアだけではない。中国のネット裁判所や、英米で話題となっているチャットボット弁護士など、法律分野でのAIの活躍に関する報道がこのところ相次いでいる。私たちの生活に深く関わっていながらも、一般市民にはどこか敷居が高い存在だった法律の世界をAIはどのように変えつつあるのだろうか。
電子国家エストニアの新たな挑戦「ロボット裁判官」
政府機能がほぼ全て電子化されているエストニア。公的部門の効率化を熱心に進めるこの国では、すでにAIは一部の行政の事務仕事を担っている。
農業補助金の審査はそのひとつだ。干し草刈りの補助金を受けている農家は、これまで人間の公務員による審査を受けていたが、現在は、欧州宇宙機関から送られてくる衛星画像をAIが分析し、農家が定められた業務の遂行義務を果たしているかをチェックするようになった。
また、膨大な情報の分析はAIが得意とするタスクだが、公共職業安定所において、求職者の履歴書データベースに基づき、適した求人情報をマッチング、紹介するのもエストニアではAIの仕事だ。AI導入後、新しい職場への定着率は58%から 72%に向上したとのことで、評判は上々だ。今後も、2020年までに、エストニアは人工知能技術に関連した35の試験的プロジェクトを予定している。
今年2019年には、さらなる行政業務の効率化を目指し、法務省が最高データ責任者であるOtt Velsberg氏に「ロボット裁判官」プロジェクトの推進を依頼したと発表された。
テクノロジーの受け入れが比較的スムーズなエストニアにおいても、AIに人生を左右する判断を任せるのかという否定的な反応も少なくないが、このプロジェクトは、ロボット裁判官という名前から一部の人が想像するように、反論の余地なく機械的に刑務所に送りこまれる、といったものではない。対象は、7000ユーロまでの契約上の紛争に関する少額訴訟に限られ、結果に納得しない場合は人間の裁判官に上訴することが可能だ。
なによりまだプロジェクトは始まったばかりであり、あくまでも今年の末までに試作アルゴリズムの試験導入がなされ、専門家によるフィードバックを待つという段階だ。AI導入に対応した法的なフレームワークの構築も、今後数年をかけて進められる予定となっている。
有能な法律専門職として世界各地で活躍するAI
エストニアのニュースは「判断」の領域にAIが進出したことで注目度が高くなっているものの、事務的なルーティンワークに限定すれば、これまでもAIの法律分野での活用は世界各地で進められている。
法律関連の定型業務、すなわち定型的な問い合わせへの対応や、書類作成、資料集めといった、従来は人が担っていた業務を近年急速にAIがカバーしつつあるのだ。
たとえば、弁護士事務所がAIによるチャットサービスで、クライアントが必要な書類の準備をするのを手助けするといった試みだ。公的分野では比較的導入が遅れていると言われる日本でも、民間では、企業の法務部では契約書のレビューや問い合わせ対応にAIが使われるなど、限定的な導入事例には事欠かない。
裁判所事務や書記業務でのAI活用を積極的に進めているのは中国だ。北京、そして杭州でオンライン関連の争議を扱うネット裁判所が設立され、AIによる訴訟リスク評価ツールや、機械翻訳や音声インタラクション技術を活用した訴訟関連書類の自動作成機能を提供している。
また、福建省ではAIが速記官の役割を担い、正確な文書作成を行うほか、その高速の処理能力を活かして、過去の膨大な判例データから類似案件を検索・分析し、裁判官をサポートする役割も担うという。
AIが担うのは法曹職の業務サポートだけではない。身近な存在とは言い難い法律と一般の人をつなぐ役割を果たす存在にもなっている。
「SUE ANYONE BY PRESSING A BUTTONワンタッチで訴えよう」というキャッチコピーがApp Storeで目を引くのが、「AI弁護士」とも呼ばれるウェブサイト「DO NOT PAY」だ。
「権利の上に眠る者は、これを保護せず」という格言があるが、実際法律上の権利を行使するのは一般人にはなかなかハードルが高い。自分が有する法的権利の存在自体を知らないことは多いし、加えてその行使のプロセスは多くの場合、官僚的で複雑だ。
「DO NOT PAY」の目的は、日常生活で誰にでも発生しうる困りごとにおいて、ユーザーが行政や企業に対し、法律上の権利を行使するための、複雑なプロセスをガイドすることだ。
最初は駐車キップに関する訴えをスムーズに行うために作成されたこのサービスだが、その後、フライト遅延の補償や、データの侵害、配達の遅れ、不正な銀行手数料についてなど多様な訴えができるようになった。
ユーザーは苦情の詳細を入力することで、自分の申し立てに法的根拠があるかどうかを確認することができ、その後、チャットボット弁護士のいくつかの質問に答えれば、法的な文書が作成され、送付される。実際にユーザーが自ら出向いて訴えを行う場合は、読み上げる台本の作成も行うという。
カリフォルニア州の学生Joshua Browderが作成したこのサービスは、今のところ成功率は60パーセント強だというが、完全に無料ということもあってアメリカ全州で使われるようになった。ロンドンへのサービス拡大後には、ユーザーが数百万ポンドを節約するのを助けたとして話題となった。
今後は、さらに複雑な訴訟を有料サービスで提供することを検討しているという。
法律家AIが変える法律と私たちのくらし
このように少し前まで想像できなかったスピードで進められる法律分野へのAIの導入だが、私たちの暮らしはどのような影響を受けるのだろうか。
AIが人間以上の公平さを司法にもたらすのかについては議論が続けられているものの、少なくとも一般の人々にとって、法律分野へのAIの導入が、法的な権利の行使をより身近なものとすることは間違いないだろう。
結果が出るまでのスピードやコスト、容易にアクセス可能な情報の少なさ、大量でわかりづらいペーパーワークといった、法的な権利を行使するにあたって生じる諸問題に、AIはすでに多様なソリューションをもたらしている。
では、法律分野の専門職にとってはどうなのだろうか。AIはやはり脅威となるのだろうか?
ロボット裁判官のケースに関して言えば、エストニア法務省は、あくまでもAI導入の目的は、人間の裁判官がより重要な案件に時間と労力をさけるようにして生産性を上げることであると強調している。
電子化に伴いエストニアでは会計士が消えたという報道が日本でなされたが、実際は今も多くの税理士・会計士オフィスが存在する首都タリン。
ある会計士は日本から訪れる視察団に語っていた。「テクノロジーは、自分の日々の業務の効率化の助けになっている。仕事が奪われたとは感じていないよ。今のところはね」
そう、数年、数十年先にAIがどこまで進化しているかはわからない。しかし、少なくとも現在のところ、AIは各分野の専門職を強力にサポートする存在として活用されており、法律分野においても多忙を極める法曹の助っ人となることが期待されているのだ。
文:大津陽子
編集:岡徳之(Livit)