「百薬の長」といわれるお酒。ストレスを吹き飛ばすために、仕事終わりに毎晩晩酌という人も多いはずだ。なかには飲み過ぎで二日酔いになってしまい、翌日の仕事がはかどらないことも少なくないだろう。
巷では適量のお酒は身体に良いということがまことしやかにささやかれているが、アルコールの影響については専門家のなかでも意見が別れており、一致した見解には至っていない。少量であれば問題がないとする意見や百害あって一利なしという意見などがある。
英インペリアル・カレッジ・ロンドンの神経精神薬理学の教授で、精神科医でもあるデビット・ナット氏はガーディアン紙の取材で、もしアルコールの安全摂取量があるとすると、それは1年間にワイングラス1杯になるだろうと指摘している。
ナット教授は、アルコール・薬物依存研究の第一人者。過去に英医薬品安全性委員会に所属し、英国精神薬理学会会長や欧州神経精神薬理学会長を務めた経験を持つ人物。精神科医として過去に多くのアルコール依存患者を診てきた経験から、アルコールの危険性を熟知している。
2007年と2010年には医学ジャーナルLancetで、アルコールはヘロインやコカインと同等の危険性を有していると唱え、大きな議論を巻き起こした。
この頃英国では、麻薬の危険性を見直す議論が起こっており、ナット教授は政府の諮問委員会に所属し、専門家としてのアドバイスを行っていた。しかし、当時の与党はナット教授らの忠告を拒否、そのことに意義を唱えたナット教授は諮問委員会から解任されてしまった。
ナット教授の主張は、一般的に手に入るアルコール飲料やタバコは、大麻やLSDより危険性が高く、これらの危険度ランクを上げるべきというものだったが、当時の英国政府はそれを認めなかった。ナット教授は、アルコールやタバコの危険性を示す研究結果が多く公表されているが、その危険性は政治的な理由で知らされずにいると批判した。
とは言いつつも、ナット教授はアルコールを完全に禁止すべきとは主張していない。自身も寝る前に少量のウィスキーを嗜み、ロンドン・イーリングにあるバーの共同経営を行っているという。
ナット教授はお酒が好きだが、医師として、また研究者としての経験からアルコールの危険性をいやというほど痛感してしまった人物といえる。
こうした嗜好と環境が、ナット教授をアルコールの良い部分だけを持つ物質の開発に駆り立てた。ほろ酔いでいい気分になるが、アルコールが持つ発がん性や二日酔いを引き起こす作用を持たない物質。この研究は過去20年に渡って行われ、このほど実用化への目処が立ち、メディアや飲料メーカーの注目が集まり始めている。
アルコールに代わる新物質「Alcarelle」、5年後に登場か
ナット教授が開発したアルコール代替物質は「Alcarelle」と呼ばれている。アルコールのほろ酔い効果を持ちつつも、二日酔いしないという夢のような物質だ。
アルコールを摂取すると脳内でどのような働きをするのか、ナット教授は自身の研究を踏まえガーディアン紙で次のように説明している。
アルコールを摂取すると、脳内のGABA受容体と呼ばれる部分が刺激され、刺激を受けたGABA受容体は少ないニューロンを発することで、脳を落ち着かせようとするという。お酒を飲むと、落ちつたり、眠くなったりする理由はここにあるようだ。ナット教授は自身の研究でラットにアルコールを与え、その後GABA受容体を遮断する物質を与えたところ、そのラットはシラフに戻ったという。
ナット教授がこの発見をしたのは20年前のこと。その後、脳科学分野でのさまざまな発見から知見を得て、GABA受容体には15のサブタイプがあり、それぞれがアルコールによって異なる作用を引き起こすということを発見したという。ほろ酔い作用だけでなく、二日酔いなど有害な作用が含まれている。
この発見から、ほろ酔いなど良い作用を持つ部分だけに影響する物質を人工的につくりだした。それがAlcarelleだ。
現在、ナット教授らは事業化チームを発足させ、実用化に向けて乗り出している。食品添加物または成分として規制を受ける可能性が高く、安全性テストを行い英関連当局からの許可を得ることになるという。
Alcarelle事業チームのマネジングディレクター、デビット・オーレン氏は、アイルランド・メディアIrish Examinerの取材で、安全性テストを実施し今後5年以内に市場に流通させる見込みだと述べている。
ナット教授は、アルコールは肝臓で代謝されると発がん性物質であるアセトアルデヒドを生成し、過剰摂取を続けると、口腔・のど・乳がんを引き起こす可能性が高く、また脳卒中や心臓病などにもつながる危険性があると指摘する。安全性テストでは、アルコールとは異なりAlcarelleはこれらの有害作用を引き起こさないことを示す必要がある。
アルコールに代わる物質の登場で、酒造メーカーは戦々恐々としていると思われたが、最近のお酒離れやノンアルブームを背景に、Alcarelleに高い関心を示しているという。Alcarelle事業チームでは現在投資家を募っているが、酒造メーカーによる投資が行われることも十分に考えられるだろう。
世界保健機関によると、アルコールの乱用で命を落とす人々は世界で年間300万人以上いるとされている。この状況に終止符を打つことができるのか、Alcarelleの可能性に期待が寄せられる。
文:細谷元(Livit)