ロボットやAI(人工知能)の進歩による期待と技術的失業への懸念が入り混じる中で、ハリウッド映画監督が自作の主演にロボット俳優を起用すると発表し、話題となった。様々な職業が技術的失業の脅威にさらされる中、不可侵領域とされてきた「芸術」の分野さえもいつの日かAIによる失業を招くのであろうか。
ロボットを主役に
ロボット俳優を主役に配置して、映画を撮ると宣言したのは「アメリカン・ヒストリー X」などの作品で知られるイギリス出身のトニー・ケイ監督。当時公開間近のインディーズ・コメディー『1stボーン』の続編『2ndボーン』としてこの映画を撮影すると発表したもの。プロデューサーのサム・コーズ氏との共同制作アイデアだ。
監督は、ロボットに多様な技術と、演技メソッドを教え込み、最終的には全米映画俳優組合がロボットの俳優を認知してくれることを願っていると語る。認知されれば、ロボット自身がオスカーを含む数々の映画俳優賞の受賞対象になり得るからだ。この決断の理由を監督は「これまで通りの特殊メイクやコンピューターグラフィックスの効果に頼りたくないから」としている。
そもそも『1stボーン』は、初めての子供を妊娠した夫婦の、文化の違う双方の父親が繰り広げるコメディードラマだ。続編となる『2ndボーン』では、1作目の出演俳優陣ほとんどの続投が予定されている。そのため、実際にどの役割をロボットに担当させるのか、どのようなストーリーラインになるかなど詳細はいまだに語られていない。
過去のロボット映画、日本でも
俳優がロボット役を演じた、1999年のロビン・ウィリアムズ主演「アンドリューNDR114」や2001年のスピルバーグ監督「A.I」とも違う、実際のロボットを使って撮影をし、映画製作をするという監督。実はロボットを起用した映画は今回が初めてではない。
2015年、遠隔操作型アンドロイド「ジェミノイドF」がヒロイン役を演じた、日本の東日本大震災映画「さようなら」が公開。東京国際映画祭のコンペティション部門へ選出され、海外でも話題になった。
このジェミノイドFは、歩き回ることが出来ないものの車いすで移動し、ゴムでできた皮膚で表情を作り、話す、歌う、人の声を録音するといったことが出来る。表情の動きは現場のラップトップコンピューターで遠隔操作され、実に人間に近い動きをしていたことは舞台挨拶の登場でも話題となった。
本映画の監督である深田晃司氏は、アンドロイドとの撮影は本物の人間よりも簡単であったと語るが、壊してしまうと修理に1000万円の費用がかかるため、細心の注意が必要であったと笑った。
それでも文句を言わず、空腹にもならず、睡眠を一切必要としないアンドロイド。現在のヴァージョンで一体約1200万円だが、ジェミノイドFの開発者である大阪大学の石黒浩教授は、映画界でのアンドロイド活用が主流となる日が来ることを望んでいると語った。
前述のハリウッド映画「アンドリューNDR114」ではロビンウィリアムズが人型家事ロボットを演じた。ロボットを購入した家族の反応はさまざま、無条件に受け入れ親しくなる妹と、反感をもって接する姉の対照的な姿が織りなすドラマ。
やがて家族は彼を人間として受け入れるようになるのだが、月日が流れやって来るのが死と別れだ。そこで、年を取らないロボットは取り残される。この映画ではロボットが人間の感情や知性を持つように進化し、自分探しの旅に出るようになり、やがては人間になりたいと願い、死を選択するに至る。
また「A.I.」では家庭にやって来た子供のロボットが、問題を起こしたことをきっかけに家族に嫌われ、森に捨てられてしまう。だが、忠誠を誓うようプログラミングされたロボットは母親探しに奔走するというストーリー。いずれもロボットが人間に近づきたいとするストーリー。それに、演者は紛れもなく人間の俳優だ。
ロボット俳優の可能性
では実際にトニーケイ監督が目指すように、ロボットを訓練し演技を習得させることは可能なのであろうか。
これまでにロボットが独自に演技、という自己表現を確立された例は聞いたことがない。あらかじめプログラムされた動きや、反応、応答はもちろん十分に可能で、そのより人間に近い姿に誰もが驚愕すると言われている現代のアンドロイド。
ただ、自分の意志で演技をするのは、たとえ実現するとしてもまだまだ先のことではないであろうか。業界では、おそらくロボットの能力に合わせた脚本を作らざるを得ないのではないかとささやかれている。
ゲームの世界でのアンドロイド
映画のストーリーとは対照的なのが、ゲーム上のストーリー「デトロイト・ビカムヒューマン」だ。ここではタイトルのとおりアンドロイドが人間(のよう)になり、意識や感情を持ち暴力的になり始める。こうしたアンドロイドは欠陥とみなされ、人間たちが排除しようと闘うストーリー展開。
ここに登場する3種類の善良アンドロイドは、人間になったアンドロイドをもとの姿に戻す警察のアンドロイド、親子関係を結ぶアンドロイド、そして従順なヘルパーとしての役割を果たすアンドロイドだ。つまり、人間の思い通りにならないアンドロイド、自分の意思を持ち自由に行動し始めるアンドロイドは悪役となる。
ゲームのストーリーでは、いわゆる人種差別と同様のアンドロイド差別の感情が生まれ、互いに対立し始めるが最終的な理想は「共存」だ。世界では現代においてもなお根強く残る人種差別や、移民差別、排他主義による残酷な事件や現実が絶えない。アンドロイドが自由に暮らすようになれば当然、差別感情や排除活動へとつながることは目に見えているのではないだろうか。
ハリウッドでも技術的失業、そして新しい仕事
では、単純労働者やサービス業の仕事を奪いつつあるロボットや人工知能は、絶対に安全と言われてきた芸術や娯楽の世界にも進出し始めるのだろうか。
バックステージでの人工知能の活用は大いに歓迎されていると聞く。今までにチーム体制で何週間もかかっていたコンピューターグラフィックスの加工を、はるかに短時間でスムーズそして何よりも少人数で仕上げられるようになった。例えば1コマ1コマをアニメーターが手書きしていたアニメの時代は大きく変わった。人工知能やコンピューターの活用により、大幅な時間短縮と人員削減(少人数体制での完成)が実現した。
最近では映画アベンジャーズでは最強最悪のラスボス「サノス」を、モーションキャプチャを取り付けた本物の俳優が演じた。これまでは、合成での撮影をするために緑色のスクリーンの前で見えない架空の相手と演技をしなければならなかった俳優たちも、実際の人間と演技をすることによってより自然な撮影環境になり、また架空のラスボスも、本物の人間の表情や動きを細かくとらえるモーションキャプチャの性能によって、より「人間味」のあふれるキャラクターの動きが可能になったからだ。悪役の動きのもとになる俳優も失業する必要がなくなった。
またハリウッドの映画業界ではエキストラの失業も心配されている。コンピューターグラフィックスや最新のテクノロジーの活用によって、実際にはその場にいないエキストラを付け足すことなど至極簡単だからだ。エキストラを募集し、オーディションにかけ、細かな指示を出したり食事を提供したり、ましてや日給を支払う必要がなくなる。大きく手間が省けるというものだが、エキストラの管理を担当していた人や、食事を提供していたケータリング業者が仕事を失うのも事実。しかし一方で、コンピューターグラフィックスでエキストラを書き込む技術者の仕事が生まれたと言える。
最近日本をはじめ、世界中で大ヒットした映画「ボヘミアンラプソディー」のライブシーンでは900人のエキストラとコンピューターグラフィックスを駆使したと明かされている。本物の観客と信じて疑わなかった観客も多かったことだろう。それほどまでに技術は向上し、映画界に浸透しているのだ。もはや本物とたがわない精巧さを実現できるのだから、主演俳優にわざわざロボットや人工知能を起用することなく、コンピューターグラフィックスやアニメーションで代用できるのではないのだろうかという疑問は尽きない。
実現可能なのか
トニーケイ監督の今回の試みを機に、ロボット俳優を起用する映画監督は増えるのだろうか。
これが実現すれば、これまで撮影中に俳優や女優たちのエゴに悩まされ続けてきた数多くの映画監督たちが、この悩み事から解放されるためだけに、決して口ごたえしないロボットと働く道を選択するようになるかもしれない(過去にトニーケイ監督はアメリカン・ヒストリーXの編集を巡って俳優と醜い争いを起こし、騒ぎとなった経験がある)。
ただその場合には、脚本を人工知能やロボットの能力に合わせたものにしなければならず、人々が感動する作品が作られるかどうかはは未知数だ。
考えてみよう、完璧な音の再現が出来るCDや音楽配信があるのにも関わらず、人々がコンサートに駆け付けるのはなぜだろう。映像の世界に簡単に触れられるこの時代でも演劇を見に行く人が絶えない。会いに行けるアイドルがもてはやされるのはなぜだろうか。雲の上の存在だったスターが、より庶民化してきているのはどうしてだろうか。もしかすると、人間は技術によって完成できる完璧さよりも、人間的なものを結局求めているのではないだろうか。
2020年に公開予定のトニーケイ監督の次作発表が、一作目に箔をつけるための単なる「話題作り」でないことを祈りつつ、業界が注目している。
文:伊勢本ゆかり
編集:岡徳之(Livit)