エンターテイメントを超えるVR、ヘルスケアの可能性

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ゲームやエンターテイメントでの市場拡大がめざましいVR(ヴァーチャルリアリティ・仮想現実)とAR(オーグメンティッドリアリティ・拡張現実)。いまだエンターテイメントのイメージが強く、健康や医療とは即座にリンクしにくいが、実は2025年までにヘルスケア分野でのVR・ARは61億ドル市場になるという試算もある。今まさに注目株だ。


VRのゴーグル(360度カメラ内臓)で世界初の手術中継をする医師 © COPYRIGHT 2016 vrLife.news

医学の補助的役割

現在、医学生の学習の場は2つある、といわれている。1つは講義や教科書を通しての学習、そしてもう1つは実際に病気の患者から学ぶ実習だ。教科書や講義から学べるのは文字や図上のこと、病気の患者だって常に学生のために準備されているわけではない。こうした学習の場の限界をVRやARの技術で補えないかと考えているのである。

例えばすでにリリースされている「Pediatric Sim(小児科疑似体験)」。小児科救急での7つのシナリオ(アナフィラキシーショック、気管支炎、糖尿病性ケトンアシドートス、呼吸困難、てんかん、敗血症性ショック、頻拍症)を用意。遊びではないが、広義での「ゲーム」を通じて正しい処置の仕方を教え、プレーヤーの判断や処置方法の評価(スコア)も出るしくみだ。

難しい手術の前に医師がVRによるシミュレーションを使用して「予行手術」をすることも可能だ。この手術シミュレーション、予行に使用するほかに、人体を使用しないでリアルな手術の経験を積むことができるという利点もある。仮想・疑似体験ではあるものの、ある程度の練習を重ねることによってスキルアップも可能だ。同様に医学生がVRで生理学や解剖学をよりリアルに、手軽に研究できる上、何よりも低コスト。経験不足によって引き起こされる事故やリスクも減少すると考えられている。

すでに、2016年にはロンドンの病院で史上初、VRカメラを使用した大腸がんの切除手術が行われた。それまで、ベテラン医師の手さばきを至近距離で観察できる医学生は左右の肩越しに眺める2人に限られていたが、執刀医が360度のVRカメラを装着することによって、医師の目線が多くの医学生をはじめ海外のジャーナリスト、手術の無事終了を待ちわびている家族や親戚たちとリアルタイムでシェアできた。

またVRやARは既存の技術との併用も容易だ。AR技術は、二次元の画像診断を3D表示に変換でき、より具体的な体内の状況を把握できる。例えばCTスキャンの画像や、歯科矯正治療の「術後予想図」を具体的かつ立体的に表示することによって、医師と患者の双方に納得のいく説明や治療方針を伝えることができるというものだ。

患者の気持ちを体験できる

技術だけではなく、患者の気持ちに寄り添ったVRの活用法もある。

身体に不自由のある患者をケアする側がVRで患者の生活を仮想体験し、より適切なサポートの方法を研究できるようになった。例えば、身体能力が落ち、視聴覚が弱った状態の架空の74歳の日常生活を7分間内科医学生に体験させるVRがある。この体験を通じて医師は、これまでの固定概念を超えたより親身なケアに向けての研究や実践を進めることが可能になる。それによって、患者の行動範囲が広がる社会の構築も加速するであろう。

また痛みの緩和にも効果があるとされているVR。痛みに対する意識を他所へ逸らすことによって、痛みが緩和されるという研究結果があり、VRが大いに役立つというもの。痛みを忘れられるような仮想現実に没頭できることで「痛み」という精神的負担を和らげることができるのだ。

特に、治療に最も激しい痛みが伴うことで知られる、全身やけどの治療に効果的と言われている雪の世界のVR。仮想現実の体験を通じ、治療の痛みに集中しがちな意識を逸らしつつ冷たい雪の世界を錯覚することによって、精神的苦痛を取り除くことができると期待されている。


雪の世界VRイメージ ©Ari Hollander and Howard Rose / Hunter Hoffman

気分のふさぎがちな長期療養の患者や小児患者には、VRを通して病室から抜け出す体験をしてもらえる。ほんの数分間でも病院から抜け出し、ビーチでくつろいだり、水中を自由にイルカと泳いだりといった経験が出来れば、病室で落ち込みがちな気持ちも晴れるだろう。

恐怖症の暴露療法に期待されるVR

エンターテイメント感覚の治療で注目されているもう一つの分野が、各種恐怖症やPTSDの治療だ。恐怖症やPTSDは特定の原因が刺激となり、病的な不安を感じる精神疾患。ただ単に「苦手」という程度のものではなく、日常生活にも支障が出るほどにもなる。例えば高所恐怖症は重度の場合、数段の脚立にも不安を感じたり、1センチの高さでパニックになる人もいる。他にも対人恐怖症やクモ恐怖症、閉所恐怖症など様々な精神病として欧米諸国ですでに認知度も高く専門医も多い。

通常、投薬やカウンセリングを通じて治療する各種恐怖症やPTSD。新たな治療法としてすでに用いられているのがVRだ。強制的に恐怖や不安原因に向き合い、慣れることによって症状を緩和できるとされる「暴露療法」。少々荒療治に聞こえるが、恐怖症の克服には必要なステップだ。

クモ恐怖症の人たちに一定の効果があるとして知られ、使われていたのが、パソコン上のクモの写真。自分で拡大したり縮小したりしながら、徐々にクモの画像に慣れていくというもので、繰り返し眺めることと、自分でその大きさをコントロールすることによって恐怖心を取り除いていた。そしてVRはさらにその先、仮想現実の空間(3Dの世界)にクモを出現させ、その数を増やしたり減らしたりできる設定。もちろん、クモも本物同様に動き回り、手の上を這いまわったりするためよりリアル。中には数時間で効果が表れた患者もいた。


クモ恐怖症治療に用いられるVR(weareformation.comより)

対人恐怖症には、架空の話し相手とのコミュニケーションや、カフェでのオーダーといった日常生活ですぐに適用できる内容のロールプレイが用意されている。不安を感じることなく、他人に向かって話しが出来るようになり、自信がつく。

しかしこれらは専門医の診察を受け、正しい治療ステップを踏んだ上でのリハビリの一部であり、自身で勝手に行う治療法ではない。仮想現実の中で、万が一パニック状態や興奮状態に陥った際に救済できる環境が整っていなければ危険だと精神科医は警鐘を鳴らす。それでも、実際に高いところへ出かけたり、クモを集めたり、練習用の相手を用意する必要がなく、手軽に低コストでリハビリ体験できることに大きな意味がある。開発する側も「VR技術はあくまでも従来の治療法の補佐であり、代替ではない」と強調している点で両者は合意している。


The Medical Futuristより Webicina Kft. © 2019

実現に向けての道のり

期待が高まるVRの新しい可能性、しかしながら実用化への道のりはまだまだ険しい。

まず医療用としての開発には医師や専門家の知識や監修が必須だが、医療関係者の中には法的な問題、倫理的な問題を提起する保守派も多く、新分野への協力は簡単には得られない。また、手術などの医療行為の妨げにならないよう機器の軽量化や、仮想現実によりリアルに近づけるゴーグルの形式や装着感改良といった課題もある。

そして最大の障害は意外にも資金難。現在のVR市場は冒頭に述べたようにゲームやエンターテイメントが主流。そして企業が数億円単位の開発予算を割くのも、ゲーム市場、それも大量に敵を倒し、殺すのが目的のゲームだというのだから、ヘルスケア事業とは真逆の世界だ。

世界のVRとAR市場は、最新テクノロジーを社会に応用することに寛容な北米がリードしているが、アジア・パシフィックでの前年比伸び予測は2018〜2025年に33%という調査結果もあり、世界中でさらなるVR・ARの活用と、新たなビジネスチャンスへの注目が高まる。少子高齢化社会、健康長寿社会へ加速していく中、ヘルスケア分野における科学技術の進歩は、人類にとってもはやヴァーチャル(仮想)でなくリアル(現実)な願いといえるだろう。

文:伊勢本ゆかり
編集:岡徳之(Livit

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