2018年8月、中国人観光客数が前年同月比の30%増を記録したイスラエル。2018年の前半6カ月、前年同期比11%減となった数値からの大復活を遂げた形だ。
イスラエルは、ヨルダンやシリア、レバノンと国境を接する中東にある。もともとパレスチナ人が居住していた地域にユダヤ人が入植し、戦争を繰り返してきた歴史的経緯があり、国の中にパレスチナ自治区が存在するという複雑かつ未だ解決しない領土問題を抱えている国だ。
中でも、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の三宗教の聖地が集中する街エルサレムは、イスラエルとパレスチナの両社が互いに首都であると主張し続けるため、話し合いは平行線のまま。このエルサレムの帰属問題を含め今なお問題がくすぶる土地である。
ユダヤ教のイスラエルと、イスラム教のパレスチナの戦争は、イスラエルを支援するアメリカとパレスチナを支援するアラブ諸国の代理戦争とも言われ、周辺のアラブ諸国ではイスラエルを国家と認めていない国も多い。そのため、イスラエルへ入国した「痕跡」(入国スタンプだけでなく、シールの跡やイスラエルの文字なども対象)のあるパスポートでは、イスラム教の中東諸国へ入国できなかったり、ホテルの宿泊がスムーズに行かないこともある。
イスラエル入国審査では、厳重な質問が繰り返し行われるうえに、他の中東諸国へ行く予定のある場合、「ノー・スタンプ(スタンプを押さないで)!」とタイミングよく申し出なければならず、難易度が高い。
一方アメリカは、トランプ大統領が昨年「米国大使館を首都エルサレムへ移転する」と発言。日本をはじめとする諸外国が大使館をテルアビブに設置している中、イスラエルの主張する「エルサレム=首都」の事実を認めた形となり世界は混乱、強く反発するパレスチナ人との紛争激化や中東戦争の勃発までもが危ぶまれた。冒頭に述べた中国人観光客の減少傾向も、この動きにともない中国政府が国民に出した「イスラエル渡航に関する安全上の警告」を発令したことによる影響だ。
日本では直行便がないことや、安全面での不安、宗教観の違いなどから、観光地としてのイメージが湧きにくいイスラエルだが、キリスト教徒の多い欧米諸国や中東のイスラム教徒にとっては人気の高い観光地だ。聖書やコーランに登場する場所が各地にあるほか、死海、温泉、地中海に面した白砂のビーチなど、聖地巡礼だけでなく観光としても十分に楽しめる。
前述のエルサレム旧市街にはキリストが十字架を背負い歩いたとされる道や聖墳墓教会、ユダヤ人の祈りの場所である嘆きの壁、イスラム教祖のムハンマドが昇天の際に足をついたとされる岩のドームが隣り合わせ(徒歩圏内)に存在し、唯一無二のダイナミックな光景は訪れる人々を魅了している。
イスラエルへの観光客はアメリカ人、ロシア人が多く、全体で2017年は前年比18%増の約360万人を記録、増加傾向にある。ただ観光地としての魅力にあふれる国ではあるものの、やはり厳重な警備体制を敷かざるを得ない不安定な情勢、いつ発生するかもしれない「戦争」への不安が大きく観光客の足並みを左右しているのは事実だ。
そこでイスラエルが着目したのは莫大なポテンシャルのある中国とインド市場だ。中国では近年、富裕層に次ぐ中間所得層の増加により、海外旅行熱が高まる一方。日本や韓国での爆買い騒動だけを見ても、中国人旅行客の海外進出と消費のパワーはめざましいものがある。
インドも中国同様に中間層、富裕層の数が激増している。両国はともに人口がまもなく14億人に到達すると言われ、2020年まで中国の中間層の数はアメリカのそれを追い抜き、さらにその10年後にはインドが追い越すという試算もある。
先進国が少子高齢化にあえぐ中、かつての発展途上国は今や世界経済をけん引しているともいえる。仏教やヒンズー教徒が大多数を占めている両国民が、エルサレムやイスラエルへ出かける動機は生まれにくく、イスラエル政府が宗教と無関係なこの層にあえて着目したのはある意味冒険でもあった。
インド市場を活性化させるため、まず政府観光局はインドの超有名女優ソナム・カプールを観光大使としてイスラエルへと招待した。この訪問にファッション雑誌「ハーパーズバザー」の撮影を絡め、フォトジェニックなエルサレム旧市街の風景をバックに、華やかなドレスやウェディングドレスに身を包んだ美しい国民的女優の姿を収めた。
撮影の合間には、彼女自身のアカウントで自撮り写真を続々アップ。タクシーに乗り込み地中海沿岸のテルアビブの街や死海を巡る写真だけでなく、「旅先でのすばらしい人たちとの出会いは、素敵な思い出」といったキャプションを付け、イスラエル観光の光景を華やかに盛り上げる。
そして「この国がすっかり気に入ったソナムは、同行した母親と一緒に旅行期間を延長した」というエピソードも付けた。有名女優を起用した理由は簡単、インドで最大の娯楽は国産の映画だから。ボリウッド(インド映画界)で活躍するセレブのの一挙手一投足は何百万人、何千万人のインド国民の注目を集めるからだ。
「ハーパーズバザー」イスラエル撮影号がインドの街角に並んだ翌月、イスラエル政府観光局は150万ドルのキャンペーンを現地で展開。テレビ広告、印刷媒体、ソーシャルメディア、専門ウェブサイトの開設など、本腰を入れたキャンペーンを現地で展開した。
これは2年前に中国で展開された観光誘致キャンペーンに追随したもの。さかのぼること2年前、イスラエルは中国市場をターゲットにした一連のキャンペーンを展開していた。中国有名女優主演映画の撮影そのものをイスラエルに誘致。イスラエル政府が13万ドルを投じ、中国からの撮影隊を招待したものだ。イスラエルの風光明媚な景色を多用した映画で、何百万人ものスクリーンの向こう側にいる中国人にアピールした。
また、これに先駆けて中国の俳優兼アーティストを観光親善大使として表彰。俳優は招待されたイスラエルで「調和のとれた安全な地元の雰囲気に感銘を受けた」と安全性を強調したコメントを発表した。この莫大な投資とセレブリティを使ったキャンペーン努力はすぐに効果を見せる。
北京からの直行便を週3便就航、団体旅行用観光ビザを無料にし、複数回入国出来るビザの有効期限を10年に延長したことも功を奏し、2016年の中国からの来訪者数は前年比93%増を記録した。
一方インドではその後、ムンバイに観光局事務所を開設し前年比13%増の旅行客数を記録。それまでは目を向けてこなかった東側、アジアの市場が動き出すのが目に見えてきた。地元のホテルでは中国語の話せるスタッフを採用し、中国人客に喜ばれるサービスに力を入れ始める。
政府観光局は中国人シェフ4人を現地に招待し、プロ向けの中華料理教室を各地で開催。また、インドのセレブリティシェフがイスラエル各地を巡り、ワークショップを通じてインド料理を伝授、両国からの観光客の受け入れ態勢を固めた。
インド人はその多くが英語を自在に操るため問題ないが、中国人観光客を迎えるにあたって、言葉の問題は大きい。2016年当時の統計でイスラエルで北京語が話せる人は60人ほどしかおらず、ニーズが高いのに圧倒的な人材不足。
北京語ガイド資格を取得するための政府主導の研修も始まったが、現在資格を所持しているのは現地ユダヤ系イスラエル人と結婚している中国語を母国語とする移民30人だけだ。
「イスラエルは、アジア人にとって旅行先の第一候補ではないかもしれない。その分、期待値が低いから満足度が高い。この地を訪れた中国人が、平和で美しいこの国に感銘を受け、帰国してから友人や同僚、親戚にその話をする。
つまり、彼ら自身が観光大使となってこれからイスラエル観光客が爆発的に増えるよ」と話すのは中国人移民の観光ガイド。迫りくる商機を目前にして、期待が高まっている。
イスラエル観光局はその後中国のソーシャルメディア「ウェイボー」で公式アカウントを開設。中国語で現地の観光情報を発信するなどし、現在フォロアー数は60万を超えた。2017年の中国人観光客数が11万人を超え、アジアからの観光客国別では第1位を記録、第2位はインドと効果は上々のようだ。
これまで注目してこなかった、莫大な人口を抱えるインドと中国市場。それぞれのターゲット層に訴える効果的な方法を探り当てたイスラエルのこれからの動向に注目が集まる。
文:伊勢本ゆかり
編集:岡徳之(Livit)