「中東のアムステルダム」へ、自転車大国の地位を狙うイスラエルの野望

「世界最大の自転車レース」と称されるツール・ド・フランス。毎年7月に開催、20〜22チーム(1チーム8人編成)が全長3,300キロ前後のコースを23日間に渡って競う過酷なレースだ。

レースの状況は世界190カ国で放送されており、地元開催のフランスはもとより、世界中で多くの視聴者を魅了している。視聴者数に関してさまざまなデータが飛び交っているが、ベルギーのルーヴェン・カトリック大学ダム・バン・リース教授の調査によると、視聴者数は世界全体で4,000万〜5,000万人(2010年)と推計される。

英国、フランス、ベルギー、スペイン、イタリアの選手が活躍することが多く、欧州でのレース人気は現在もとどまるところを知らない。

自転車アプリVelonのまとめでは、ツール・ド・フランスでは2,000人のジャーナリスト、300社を超えるメディア企業(新聞、PR会社、ウェブサイト)、70ほどのラジオ局がレースを取り上げており、その人気の高さを物語っている。


ツール・ド・フランス山岳ステージ

このツール・ド・フランスとともに「世界3大自転車レース」と呼ばれるのが、スペインの「ブエルタ・ア・エスパーニャ」とイタリアの「ジロ・デ・イタリア」だ。これらのレースでは欧州内の隣国にコースが拡張される場合もあるが、基本的には国内を中心にコースが設定される。欧州外にコースが設定されることはこれまでなかったと考えられる。

しかし、2018年5月に開催された第101回ジロ・デ・イタリアでは、イスラエル・エルサレムが出発地点となったのだ。欧州外からのスタートは1909年に同大会始まって以来初となる。

世界中で注目されるジロ・デ・イタリアの出発地点が欧州域内を超え、なぜエルサレムとなったのか。そこには持続可能な都市づくりに向け、オランダのような自転車大国を目指そそうとするイスラエルの意気込み、そしてその取り組みを支えるあるキーマンの姿が見えてくる。

イスラエルを「自転車大国」に変えるキーマン、シルヴァン・アダムス

イスラエルの自転車大国への野望を支える最重要人物が、カナダからイスラエルに移住したユダヤ人フィランソロピストのシルヴァン・アダムス氏(59歳)だ。


シルヴァン・アダムス氏(YoutTube Start-up Nation Central チャンネルより)

アダムス氏は、父親であるマーセル・アダムス氏がカナダで創業した不動産会社Iberville Developmentsを引き継ぎ、2015年頃までCEOを務めていた。その後CEOを息子のジョッシュ氏に任せ、2015年末にイスラエル・テルアビブに移住した。

アダムス氏はビジネスの傍ら30代後半に始めた自転車にのめり込み、公式レースで数々のタイトルを獲得、アスリートとしての顔も持っている。自身がユダヤ人アスリートであること、また父親がフィランソロピストであったことから、イスラエルで自転車を含めさまざまなスポーツを振興することを決心したという。

その1つが「シルヴァン・アダムス・自転車道路」だ。

現在イスラエル政府は、ホロンやバトヤムなどイスラエルの各都市を通りテルアビブにつながる全長110キロに及ぶ自転車道路の整備を計画している。

そのなかの1区間(約3.5キロ)をアダムス氏らが自己資金を投じ整備を支援。この区間は「シルヴァン・アダムス・自転車道路」と名付けられた。整備コストは約200万ドル(約22億円)、整備期間は1年を要した。2018年11月にテルアビブで完成式典が開催された。

地元メディアによると、アダムス氏は式典でこのプロジェクトの最終目標はテルアビブを「中東のアムステルダム」に変えることだと意気込みを語った。オランダのように自転車インフラを整備することで、バスや電車に並ぶ移動手段として確立することを目指すようだ。テルアビブ周辺で深刻化する交通渋滞の緩和も見据えている。


テルアビブの交通渋滞

カナディアン・ジューイッシュ・ニュースの取材で、アダムス氏はテルアビブから8キロしか離れていないペタフ・テクノヴァまで、朝の通勤時間帯だと自動車では1時間も要してしまう現状を説明。自転車であれば20〜30分で到着できる距離だ。

現在テルアビブ周辺には140キロに及ぶ自転車道路が整備されているが、ここに新たに110キロの自転車道路が加わることになる。これら新道路が完成するのは5年後になるという。


テルアビブの自転車道路

ジロ・デ・イタリアをイスラエルに招致したのもアダムス氏だ。

イスラエル移住にともない地元自転車プロチーム「イスラエル・アカデミー」の共同オーナーに就任。

アダムス氏は同チームを国際自転車競技連合(UCI)のレースに参加できるように尽力した。アダムス氏の支援が奏功し、同チームは2015年からUCIのレースに参戦できるようになった。

アダムス氏は、イスラエル・アカデミーを含め同国の自転車シーンを世界にアピールすべく、ジロ・デ・イタリアの主催者であるイタリアのメディア企業RCSスポーツに直接提案を行った。イスラエル・エルサレムを出発し、ローマがゴールとなるコースだ。

アダムス氏はCanadian Cycling Magazineの取材でこの提案について、エルサレムからローマに向かうという象徴的なコースで、平和と友愛のメッセージを伝えるものだと語っている。このときアダムス氏は、イスラエルのネタニヤフ首相からバチカンのローマ法王宛の書簡を預かり、自ら届けたという。

地元紙タイムズ・オブ・イスラエルによると、ジロ・デ・イタリアのスタート地点エルサレムでは、設備やイベントなどに約1億2,000万シェケル(約36億円)の費用がかかったが、そのほとんどをアダムス氏が賄ったという。

イスラエル史上もっとも費用のかかったスポーツイベントの1つになったといわれている。スタート当日は600人を超えるスポーツ記者がエルサレムに集結し、その様子を世界各国に伝えた。


2018ジロ・デ・イタリア、ステージ2(イスラエル)

またアダムス氏はイスラエル初となる自転車トラックレース用の屋内競技場の建設費用7,000万シェケル(約21億円)の半分以上を支援したとも伝えられている。

さらに、イスラエルだけでなく中東の他の国々に5つの屋内競技場を建設する計画もあるという。

起業国家として知られるイスラエルだが、アダムス氏はこれらの取り組みを通じて同国が「自転車大国」、さらには「スポーツ国家」としての地位を確立することを望んでいるようだ。

イスラエルのスポーツシーンを大きく変えるキーマン、シルヴァン・アダムス氏。イスラエルが「中東のアムステルダム」になることができるのか、アダムス氏の手腕に注目が集まる。

文:細谷元(Livit

モバイルバージョンを終了