1995年に公開されたハリウッド映画『JM』(原題:Johnny Mnemonic)をご存知だろうか?キアヌ・リーブス主演、北野武が出演したこともあり当時話題となった、近未来SFサスペンス映画だ。
キアヌ扮する主人公のジョニーは、脳に記憶装置を埋め込まれた「情報の運び屋」。ある日、重大かつ大量の機密情報を運ぶ任務を命ぜられるが、殺し屋に追われる身となり、さらに暗号化された情報のキーを奪われ…と物語が展開していく。
公開時は完全なるフィクションエンターテインメントであったが、約四半世紀経った今、すぐ目の前の現実として迫っている。
体内に小さなチップを埋め込んで、健康状態を管理したり、IDとして利用したりする「マイクロチップ」。これまではペットの迷子防止など動物を主に使われてきたが、昨年、アメリカのIT企業が、社員に任意のチップ埋め込みを実施して話題となった。
今後マイクロチップは私たちの環境をどのように変えていくのか。その現状と未来を紐解いていく。
パソコンのログインから支払いまで ――社員にマイクロチップを埋め込む米企業の試み
米ウィスコンシン州にあるIT企業スリースクエアマーケット は、2017年8月、従業員へのマイクロチップの挿入を行った。挿入は個人の意思に任せられるが、80名以上いる本社スタッフのうち50名がこれに賛同したという。チップを挿入したある従業員は「マイクロチップの情報を正確に伝えられたので、装置を移植することに抵抗はなかった」と話す。同社のトッド・ウェストバイCEOは、CNBCのインタビューに「テック企業であれば、エキサイティングと考えるだろう。これは奇異なことではなく“クール”なことなのだ」と語った。
マイクロチップは親指と人差し指の間の皮膚に挿入される米粒大のチップ。RFID(ICタグに記憶された情報を無線通信によって読み書きするシステム)が搭載され、ドアの開け閉めやパソコンのログイン、社員食堂での支払いなど、多くのことがハンズフリーで可能となる。パスワード入力、IDバッジ、そしてクレジットカードの代替になるのだ。
チップは太めの針を持った注射器のような器具で挿入される。痛みは一瞬、大きく深呼吸してチクっとしたらもうチップは体内に。傷口に絆創膏を貼って終了だ。費用は300米ドル程度とのことである。
マイクロチップ先進国、スウェーデン
スリースクエアマーケットの「マイクロチップ埋め込みプロジェクト」には、スウェーデンのマイクロチップ開発ベンダー、バイオハック・インターナショナル が提携している。スウェーデンは世界的な「マイクロチップ先進国」で、2015年のマイクロチップ導入後、現在は3,000人以上の国民が体内に埋め込んでいるという。首都ストックホルムにあるイノベーションセンター、エピセンターでは、すでにマイクロチップを利用したメンバーの入退室管理が実施されている。
また、スウェーデン鉄道は2017年5月より、乗車券やICカードの代わりにチップ利用した、世界初のマイクロチップ検札システムを導入した。チップを保有した乗客は、事前に鉄道のサイトで乗車券を購入すると、乗車時に乗務員のモバイル端末に手をかざすだけで乗車できるという仕組みだ。自身のスマートフォンからもチップ上に登録した情報を閲覧、更新できるという。
スウェーデンのエピセンター
チップの埋め込みは「人体の進化」? バイオハッカーの存在
なぜスウェーデンではいち早くマイクロチップへの理解が広がったのか。その背景には国民のデジタルテクノロジーへの信頼度の高さが挙げられる。スウェーデンは、インターネット電話の「スカイプ」や音楽配信サービスの「スポティファイ」など、早くからITスタートアップを生み出してきた。新しいデジタル技術への国民的な確信・理解が土壌となったことは確かである。
さらに、独自の「バイオハッキング文化」も影響していると、スウェーデン・ルンド大学のモア・ピーターセン博士は分析する。バイオハッキングとは、テクノロジーを駆使して生物学的なものを解析・改変する分野を指し、遺伝子やDNAの組み換えもこれに属する。バイオハッキングは細分化されているが、その中に「身体や精神・頭脳のパフォーマンスを進化させる」グループがあるという。この流れを組むのがスウェーデンのバイオハッカーで、彼らは自らの身体を実験材料とし、チップを埋め込んで人体を「進化」させているというのだ。
スポーツ選手のドーピング防止策、仮想通貨の創出
埋め込み型チップの活用は、多くの可能性を秘めている。
たとえば、元オリンピック選手による国際組織、世界オリンピアン協会(The World Olympians Association)のチーフエグゼクティブ、マイク・ミラー氏は、選手のドーピング防止策としてマイクロチップの利用を提案している。ミラー氏は「あくまで個人的な意見」としながらも「オリンピックにはドラッグを確実に検出するシステムが必要であり、最新技術を使うことでそれが実現するなら活用すべきだ」と述べている。
さらに、仮想通貨の分野にも進出している。デンマークの企業BEIZ は、マイクロチップを使った暗号通貨BiChipを開発中だ。BiChipは仮想通貨リップルを利用し、これを体内に埋め込めば“外部”に口座を作らなくてもよいという。将来的には支払いも可能になるとのことだ。
プライバシーの侵害、健康上のリスク――マイクロチップの課題
しかしマイクロチップに対して、依然多くの人が慎重な姿勢を取っていることは明らかだ。個人情報や居場所の特定などのプライバシー侵害問題や、健康上のリスクを心配する声は後を絶たない。
前述のスリースクエアマーケットのマーケティングエグゼクティブ、ケイティー・ランガー氏は埋め込みを拒否した社員のひとりだ。彼女はNBC Newsのインタビューに「長期に渡る埋め込みによる、身体への影響が気になる」と答えている。
実際のところどうなのだろう? プライバシーについて、マイクロチップの専門家カイラ・ヘファーナン氏は「チップにはGPSセンサーも追跡機能もついていない。誰かがあなたを追跡しようとしたら携帯電話を使うだろう」と言っている。実際、出回っているマイクロチップには、大量の情報を保持するほどの容量はないという。
しかし一方、米カーネギー・メロン大学大学院のアレサンドロ・アクイスティ教授は「ある目的に沿って開発されたテクノロジーも、後には他の用途のために勝手に使用される危険性がある」と警鐘を鳴らす。初めは「ドアを開けるために」作られたとしても、その後「どれだけ休憩を取っているか」を追跡するために、本人の同意なく勝手に使われることがあるかもしれない。しかも、一度チップを埋め込んでしまうと除去は難しいと、付け加えている。
健康上のリスクについても未知数である。FDA(米食品医薬品局)は医療目的での埋め込みチップを承認しているが、感染の危険性や、チップが体内を移動する可能性も示唆している。
リスクや解決すべき問題はいまだ多いものの、今後チップの開発が進んでいくことは間違いない。一説では、脳に埋め込むチップも研究が進められているという。もしより性能の高いチップが誕生してこれらの問題がクリアされたら、いずれはマイクロチップの付与が当たり前となり、JMの世界が現実となる日も来るのかもしれない。
文:矢羽野晶子
編集:岡徳之(Livit)