独立後初の政権交代へ、マレーシア総選挙で勝利したマハティール野党連合がミレニアル世代の心を掴んだ理由

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ランカウイ島やレダン島など、多くのビーチリゾートを有するマレーシア。世界中から観光客を呼び寄せ、日本からも年間50〜60万人が訪れている人気の旅行先だ。

そのマレーシアで5月9日、連邦議会下院の総選挙が実施され、野党連合が勝利し、英国から独立後初となる政権交代が実現した。これより92歳のマハティール元首相が15年ぶりに首相に復帰し、世界最高齢の国家元首が誕生したのだ。

マハティール首相といえば前回1981〜2003年まで首相を務めていた際「ルックイースト政策」を掲げ、日本を参考に経済成長を実現させ、そのアドバイザーに大前研一氏を起用するなど日本との関わりが非常に深い人物だ。

今回の総選挙では、ナジブ首相率いる与党連合が有利とされていたが、結果マハティール氏が率いる野党連合の勝利となった。その要因の1つは、浮動票の大半を占めるといわれている若い世代がマハティール氏/野党連合に傾いたためと推測できる。ミレニアル世代を中心とするマレーシアの若者は政治への関心が薄れているといわれているが、総選挙の結果はそうではないことを示唆している。

今回は若い世代の選挙参加の実情を紹介しつつ、マハティール氏の首相復帰に見るマレーシア国民の心情を探ってみたい。

92歳マハティール氏、ツイッターとフェイスブックで若者にアピール

まず今回のマレーシア総選挙の概要から説明したい。

今回実施されたのは第14回総選挙。定数222議席の連邦下院議員を選ぶ選挙で、64歳のナジブ氏率いる与党連合・国民戦線にマハティール氏率いる野党連合・希望連盟が挑んだ格好だ。

ナジブ氏はマハティール氏の後継者として2009年から首相を務めてきたが、中国偏重政策や不正資金流用などに対してマハティール氏から厳しい批判を受け、対立が激化していた。

こうした経緯があり、マハティール氏は2016年に与党を離脱し、野党連合を組織。総選挙でナジブ氏に対抗し、首相候補として出馬することを表明したのだ。

選挙前の世論調査では与党と野党の支持率は拮抗しており、接戦が予想されていた。一方、選挙区の区割りなどを考慮すると「与党優勢」との見方が強かったといわれている。

結果を見てみると、マハティール氏率いる野党連合が過半数の議席を獲得し、勝利した。

支持率は拮抗し、与党優勢との見方が強かったこの選挙で、野党が勝利できたのはなぜか。その理由の1つは、若い世代(ミレニアル世代)の浮動票が野党連合に流れたことが考えられる。

今回の総選挙では、ナジブ氏でもマハティール氏でもどちらが首相になっても同じだという考えを持つ若者が多く、投票の無効化を促すキャンペーンが実施されていた。

しかし両陣営ともソーシャルメディアを駆使し、浮動票の大半を占める若い世代へのアピールに注力。その結果、野党連合が若い世代へのアピールで勝り、選挙でも勝利したようだ。

92歳のマハティール氏は、ツイッターとフェイスブックでさまざまなメッセージを発信。2017年初めのマハティール氏のツイッターアカウントのフォロワー数は1万5000人ほどだったようだが、現在では67万人を超えている。選挙への若い世代の関心が高まったことを示しているといえるだろう。フェイスブックには現時点で350万人ほどのフォロワーが確認できる。

ぶれないビジョンと実行力をもつ真のリーダー

総選挙で勝利し、首相に返り咲いたマハティール氏。世界最高齢の国家元首が誕生したとして、各国のメディアが大々的に報じている。

若い世代を含め、マレーシア国民はなぜマハティール氏を選んだのだろうか。マハティールという人物、彼のビジョンや思考を探ってみると、マレーシア国民がいま求めているものが見えてくる。

1925年、英領マラヤ時代のマレー半島北部タグ州・州都アロースターに9人兄弟の末っ子として誕生。当時のタグ州は英国の支配下にあったが、植民地ではなくスルターン(君主)にある程度の権限が残された「保護領」であった。


アロースター

1941年12月、日本軍がマレー駐留の英軍に攻撃をしかけ一掃。このときマハティール氏は高校生だった。

日本が降伏後、マハティール氏はマレー半島が英国の保護領に戻ることを望んでいたとされる。しかし、英国はスルターンの権限を完全撤廃し、あらゆる政治活動を禁止するなど、完全な植民地化を進める案を突きつけたという。この案は後に撤廃されるが、この英国の態度はマハティール氏が独立運動や政治活動を進めるきっかけになったといわれている。

このころマレー半島は11の州によってマラヤ連邦を形成していたが、英国の植民地支配下にあった。

マハティール氏は1946年、統一マレー国民組織(UMNO)発足に関わり、独立運動と政治活動を強めていくことになる。1953年には、シンガポールの医科大学を卒業し、医師の資格を取得。

それ以降アロースターの総合病院に勤務していたが1957年に辞職し、現地でマレー人初となる医院を開業、主に貧困層の診療に取り組んでいた。医師業と並行して、UMNOの政治活動に従事。その後、1964年4月に実施された総選挙でケダ州から選出され、下院国会議員となった。

1981年、56歳で首相に就任したマハティール氏。一国のリーダーとして何を考えていたのか。その一端を大前研一著『日本の論点2015〜16』で垣間見ることができる。冒頭でも述べたように、当時大前氏はマハティール首相の経済アドバイザーを18年間務めており、人となりをよく知る人物だ。

マハティール首相が素晴らしいリーダーである理由は「政治家として何がやりたいのか?」と聞くと、「こういうことがやりたい」と明確な答えが返ってくることだと、大前氏はいう。

あるとき、マハティール首相は「貧困をなくしたい」といったという。当時のマレーシアは、ニッパヤシで作った家に住んでいる人が5割以上おり、そのほとんどがブミプトラと呼ばれるマレー人だった。このような人たちがまともな家に住めるようにすること。これがマハティール首相の政治目標の1つであったという。

貧困をなくすためには、経済を発展させる必要がある。しかし、当時のマレーシアは鉱物、天然ガス、農作物の輸出や観光業に依存した体質で、高付加価値を生み出せる経済構造にはなっていなかった。

そこでマハティール首相は、まず日本を手本に工業化を推し進めることにした。特に日本の強みでもあった自動車産業に関心を示したマハティール首相は、当時中小企業が多く密集していた東京大田区に足を運び、さまざまな会社を見てまわったようだ。買収の話を持ち出した途端に、社長から「帰ってくれ」と言われたこともあったようだが、結果多くの日本企業の誘致につなげることができたという。ちなみにマハティール首相の好物は天丼だそうだ。

その後、三菱自動車の支援を受けた自動車メーカー「プロトン」、ダイハツ工業の支援を受けた「プロドゥア」という2つの国産自動車メーカーを生み出すなど、工業化は成功したと評価されている。東南アジア諸国のなかで、国産自動車メーカーを生み出したのは今のところマレーシアだけであり、このことからマハティール首相の先見性と実行力をうかがうことができる。


プロトン車

また、工業化の先を見据えたIT産業の育成も早い段階で開始している。

当時はまだ世界経済への影響力が小さかった中国だが、その経済力が増してくると小国マレーシアは工業では勝負できなくなる。中国が目覚めたときに生き残るには、知的産業で優位性を持つことだ。大前氏はマハティール首相にこのように進言したのだ。

これをきっかけに1996年から国家プロジェクト「マルチメディア・スーパーコリドー」が開始されることになる。このプロジェクトでは、首都クアラルンプール周辺に最新のITインフラを整備したコリドー(回廊)を開設し、IT産業クラスターを生み出そうという試みだ。この一環で、ハイテク工業団地「サイバージャヤ」や行政都市「プトラジャヤ」が建設された。


ハイテク工業団地「サイバージャヤ」

こうした経済政策の結果、1980年代2000ドル前後だった1人当たりGDPは、現在5倍の1万ドル前後にまで達しており、マレーシアはシンガポールとともに「東南アジアの優等生」と呼ばれるようになっている。

長期的なビジョンを持ち、その実現に向けて着実に実行する力は感嘆するばかりだ。国のリーダーとして一級の手腕を持っている人物といえるだろう。

奇しくも、いまは人工知能やIoTなどによって第4次産業革命が進展しつつある。いまの段階で国が正しい方向を向かなければ、世界競争のなかで生き残っていくことは難しくなるだろう。マレーシア国民が今回の総選挙でマハティール氏を選出したのは、こうした将来への不安が募り、混迷する世界の中で生き残るためには強いリーダーの復帰が必要だと考えたからかもしれない。新生マレーシアがここからどのように発展していくのか、今後の展開が楽しみである。

文:細谷元(Livit

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