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年末になると話題になる「流行語大賞」。その年に話題となった言葉が選出されるイベントであるが、日本だけでなく海外でも同様のイベントが実施されている。
2017年、英語圏でもっとも話題となった言葉の1つに「フェイクニュース」がある。英語辞書を発行している英コリンズ社が選ぶ2017年の「The Word of the Year」に選ばれた。
一方、フェイクニュース自体はまったく新しいものではなく、歴史をさかのぼるとかなり以前から存在していたことが分かっている。近年になり注目され始めたのは、ソーシャルメディアの普及によりフェイクニュースの影響が無視できないものになってきたからだろう。その極めつけは2016年の米大統領選挙だったともいわれている。
およそ10年前、フェイクニュースの影響で国家レベルの甚大な被害を受けた国があることをご存知だろうか。いまでは世界最先端の電子国家と呼ばれる「エストニア」だ。この経験がエストニアの電子国家化を加速させるきっかけとなった。
今回は、エストニアの電子国家化を加速させたフェイクニュースとはどのようなものだったのか、そしてエストニアだけでなく世界中で話題となっているフェイクニュースについての現状をお伝えしたい。
エストニアの電子国家化はフェイクニュースから始まった
1991年ソ連から独立したエストニアは、経済発展の遅れを取り戻そうとすぐにITインフラ整備やIT人材育成にとりかかった。2000年頃には、現在の電子国家の根幹となるデジタル署名やデジタルIDに関する議論が進められ、関連法案が可決されていった。
エストニア政府の建物
その後経済は順調に伸び、2004年には念願だった欧州連合(EU)加盟とNATO加盟を果たしている。エストニア発のサクセスストーリー「スカイプ」が登場するのもこの時期である。
しかし、2007年4月隣国ロシアとの政治関係が悪化し、経済に甚大な被害を受けることになる。当時、エストニアの首都タリン市内に旧ソ連兵の銅像が設置されていたのだが、エストニア政府はこの銅像を郊外に移転しようとした。
この銅像は1947年にソ連が設置したもので、ロシアによると第二次大戦でナチスを倒した赤軍兵士を記念する神聖な記念碑であるという。一方エストニアでは、ソ連による占領の歴史の象徴として捉えられている。
エストニア政府が銅像の移転決定を明らかにしたところ、ロシア系メディアやエストニア在住ロシア人が猛抗議を行い、銅像の前で一部が暴徒化した。暴動により、逮捕者156人、けが人1000人、1人が死亡するという事態となった。
このとき事態を悪化させたのが「フェイクニュース」だったといわれている。ロシア語メディアが、エストニア政府が銅像を破壊しようとしているという虚偽の報道を流したのだ。
このフェイクニュースと暴動のすぐあと、エストニアのさまざまな機関に対して大規模なサイバー攻撃が行われ、エストニアの経済は麻痺状態に陥った。銀行サービスや行政サービスなどオンライン上のありとあらゆるサービスが使えなくなったのだ。
サイバー攻撃は数週間に渡って続いたとされるが、実際には翌2008年にも同様の攻撃を受けている(一連のサイバー攻撃のIPアドレスはロシアのものであったが、ロシア政府は関与を否定している)。
このような経験から、エストニアではサイバー防衛能力強化の機運が高まることになる。
高等教育機関におけるサイバー防衛人材育成プログラムの強化に始まり、2008年にはNATOの「サイバー防衛協力センター」の設置、さらに専門家有志によるサイバー防衛ユニットが結成されるなどしている。強力なサイバー防衛能力がなければ、世界最先端といわれる電子政府システムは存在しなかったかもしれない。
エストニアのユリ・ラタス首相がロイター通信に「過去の経験からエストニア人はフェイクニュースに対する免疫が強い」と説明しているように、技術的側面だけなく、社会的側面でもサイバー防衛能力が高い国といえるだろう。
フェイクニュースで混乱に陥る世界がエストニアから学ぶべきこと
エストニアの暴徒を煽ったフェイクニュース。当時に比べインターネットやソーシャルメディアが社会に広く浸透した現在、情報伝達の範囲と速度は爆発的に伸び、社会へのインパクトは一層大きくなっている。欧州や米国だけでなく、インドや中国を含め世界中で深刻化している課題である。
インドでは、ソーシャルメディアアプリWhatsAppを通じてフェイクニュースが拡散され、社会に大混乱をもたらした事例が報告されている。2016年11月、インド政府が2000ルピー札の導入を明らかにしたとき、このルピー札にGPS追跡できるチップが埋め込まれているというフェイクニュースが拡散された。また、塩不足の報道に乗じて、品切れになるというフェイクニュースが拡散した事例もある。
2016年の米大統領選挙では、フェイスブックなどのソーシャルメディアを通じて数多くのフェイクニュースが流れた。フェイクニュースがなければドナルド・トランプ氏は大統領に選ばれていなかったかもしれないという研究もあるほど、世論に多大な影響を与えていることが分かる。米スタンフォード大学の研究者らが分析したところ、選挙期間にトランプ寄りのフェイクニュースがフェイスブック上で計3000万回、クリントン寄りのフェイクニュースが計760万回シェアされたという。
BBCが報じたところによると、トランプ寄りのフェイクニュースの多くは人口500万人に満たない東ヨーロッパの小国マケドニアから配信されていたことが明らかになっている。そこでは、複数のフェイクニュース組織があり、多くの10代の若者を雇い、フェイクニュースを量産していたようだ。19歳の大学生はフェイクニュース作成で1カ月1800ユーロ(約24万円)の収入を得ていたという。現地の平均月収350ユーロの5倍以上だ。
問題が深刻化するなかで、フェイクニュースの拡散に歯止めをかけようとする取り組みが少しずつ始まっているようだ。
フェイクニュース対策の1つとして挙げられているのは、Snopes.comやFactCheck.orgなど事実確認できるウェブサイトの活用だ。また、メディアコンテンツを批判的に見る能力や、ロジックを確認するなど、読者のリテラシー向上についても議論されている。さらに、拡散ツールとして利用されてしまったフェイスブックやグーグルなどは、フェイクニュース対策を講じていると報じられている。
ソーシャルメディアを含め、デジタルテクノロジーは人間の適応スピード以上の速さで普及・進化している感は否めない。フェイクニュースが拡散してしまうということは、人間がまだデジタルテクノロジーをフルに使いこなせていないあらわれと見て取れるのではないだろうか。フェイクニュースやサイバー攻撃による甚大な被害から立ち直り、最先端の電子国家になったエストニアの経験から学べることは非常に多いはずだ。
[文] 細谷元(Livit)