「匿名」であることで、人は自由に発言しやすくなる。良くも悪くも。インターネットサービスの中には、匿名を前提とするサービスも多く、多様な匿名サービスがこれまでにも生まれてきた。
中東で生まれた匿名メッセージアプリ
最近、TwitterやInstagramでよく見かける中東発の匿名メッセージアプリ 「Sarahah(サラハ)」。2017年7月頃から北米で火がつき始め、日本でも広がったのは秋以降だろうか。
同アプリはソーシャルメディアとしては珍しく、開発企業の拠点はサウジアラビア。2016年にローンチされ、サービス内容は匿名投稿で友人らから送られてくる質問内容に答えるシンプルな仕組みだ。
誰がどんな投稿をしたのかはわからないようになっており、直接ユーザーへ返信することはできない。ダイレクトな双方向のコミュニケーションはできないが、回答は不特定多数のユーザーに公表されるわけだ。
2017年の春頃には「Sarahah」の動画版とも言える「Whale(ホエール)」がシリコンバレーのスタートアップ界隈で流行ったこともあった。
匿名テキストメッセージでシリコンバレー界隈にいる起業家や投資家に質問し、回答が30-60秒程度の動画で返ってくる。著名アクセラレーター「Y Combinatonr(ワイ・コンビネーター)」のパートナーが作ったこともあり、起業に関する質問が殺到した。
このように、5年ほど前から盛んになっている匿名メッセージアプリ市場にも未だ伸び代があると認識されており、新しいコミュニケーションのやり方が模索され、今なお多くのスタートアップが誕生している。
こうしたなか、Facebookがティーン向けメッセージアプリ「tbh(ティービーエイチ)」を買収したニュースは記憶に新しい。
ポジティブな人物クイズに、投票で答えるシンプルな仕組み
「tbh」のサービス内容を一言で表すなら、「人物クイズ」と言えるだろう。友人から匿名で送られてくる質問内容に、最も適した人物を4つの選択肢の中から選ぶ投票アプリだ。
例えば、「いつもUber(配車サービス)を使っている人は?」、「最もセレブに見える人は?」、「宝くじに当選しそうだけど、チケットを失くしそうな人は?」といった質問が匿名で飛んでくる。
自分の友人リストから4択で選択肢が出現し、そのなかから適切な人へ投票する。最も投票数の多い人はルビーを貯めることができ、より多くのルビーを持っているユーザーに優先して質問が飛んでくるといったインセンティブ設計になっている。ユニークなのは、ポジティブな内容しか投稿できないことだ。セクシャルな内容や他人を侮辱する投稿は弾かれる仕様になっている。
現在、アプリダウンロード数は500万を突破、合計質問数は1億に至り、250万デイリーアクティブユーザーを獲得したこともあった。
tbhは、2017年8月のローンチから2か月後、Facebookに買収された。株式を現金に変換することで億万長者を目指すシリコンバレーの起業家にとって、tbhの事例は超スピード出世とも言える。
Facebookとのシナジーは「コミュニティ戦略」
さて、「tbh」買収劇の裏側を知るには、2016年と2017年にFacebookが主催したディベロッパー向けコンファレンス「F8」で発表された同社の長期戦略を抑える必要があるだろう。
Facebook創業者マークザッカーバーグは2016年のF8で自社ミッションに関して次のように語った。
「Give everyone the power to share anything with anyone. (誰もが、どんな内容を誰しもにシェアできる力を与える)」
上記ミッションを達成するため、ザッカーバーグは5つの戦略的ステップを示した。
- 1対1のコミュニケーション
- 小グループの構築
- 友人間の繋がりを作る
- コミュニティーの形成
- 世界を繋ぐ
コミュニケーションできる大きさを徐々に、個人間単位から集団へと膨らませるため「WeChat(ウィーチャット)」や「Messenger(メッセンジャー)」に代表されるメッセージアプリの開発に注力。
それと同時に、「Instagram(インスタグラム)」のような写真や動画を軸にしたビジュアルコミュニケーションアプリのユーザー獲得へ乗り出していた理由も5つの成長戦略ステップから理解出来る。
一方、2017年のF8では次のように語っている。
「Give people the power to build community and bring the world closer together.(誰もが、コミュニティーを作り・参加することができるようにし、世界をより身近なものにする)」
2017年のミッション表明から、個人間単位でのコミュニケーションはすでに既存サービスでカバーされており、これからは様々な角度からコミュニティ育成へと戦略を整えていく意気込みが伺える。
例えば、「Messenger」のようなアプリはコミュニケーションのインフラでしかない。コミュニティーが育つ仕組み自体はそこにはないのだ。この点、「tbh」はティーン層を中心にユーザーを集める仕組みと強いエンゲージ力を維持しながらコミュニティを発展させる要素がある。
「tbh」のコミュニティ戦略はFacebookの目指すミッションに合致すると言えるのではないか。おそらく、単なる個人間のやり取りを推奨するアプリであったのならば、今回の買収はなかったであろう。
「tbh」が誕生した背景には、「悪口文化」が育てた匿名アプリ市場がある
「tbh」含む匿名アプリ市場の変遷を一言で表現するならば「悪口アプリの歴史」とも言える。悪口は拡散力の面で良質なコンテンツなのである。
たとえば「Whisper(ウィスパー)」。同アプリは写真と文字キャプションを合わせてセクハラや不倫など、人には言えないタブーな内容を匿名で共有できるサービスだった。2015年には2,000万人を超えるアクティブユーザー数を誇っていた。
また類似サービスとして、「Secret(シークレット)」は友人間で秘密を語り合うことに焦点を置いていた。しかし、アンチ・ハラスメント団体などの非難を食らい、サービスをクローズ。
現在も生き残り、徐々に広がりを見せていると噂されているアプリとして、社内のセクハラや悪口、給与に対する不満を匿名投稿できる「Blind(ブラインド)」が挙げられる。ユーザーは会社のアドレスを使って登録、同じ会社の同僚や違う部署の人たちに対する仕事の愚痴や不満を匿名投稿できる仕組みだ。
Yahoo!の15%、LinkedInの12%、Microsoft社員の10%が使っていると報じられており、従業員向け匿名アプリ市場を手中に収めている。昨今の「#Metoo」の盛り上がりも追い風となり、口に出せない上司への不満を共有できるプラットフォームになっているのだろう。
ユーザーにとってはたしかにメリットもあるかもしれないが、コンテンツ内容は「Whisper」と「Secret」同様にネガティブなものであることに変わりはない。
ティーン向けの匿名アプリ「After School(アフタースクール)」が脚光を浴びた時期もあった。「After School」では「クラスの誰かと誰かが一晩を過ごした」、「あのクラスの誰かと誰かはデキている」といった直接的な内容をショッキングなGIFや短尺動画と一緒に配信することができる。
ユーザーは自分の通う学校のグループにしか参加・コンテンツを投稿できない。匿名とはいえ、学校別のグループということもあり、分かる人には分かってしまう悪口の温床になるデメリットが発生。親がアプリに登録できず、子供を監視できないこともあり、バッシングを浴びた。
「tbh」は匿名アプリ市場に初めて登場した、社会的・モラル的に認められるアプリ
匿名アプリの歴史を見ていると、大人向け・子供向け問わず、「悪口」がユーザーインセンティブの核になっていることは間違いない。一方、「tbh」がユーザーコミュニティを成長させる上で優れている点は、ポジティブな内容しか投稿できない点のみならず、投票形式のコミュニケーション・スタイルに絞っている点である。
これまでの匿名アプリでは、コンテンツを不特定多数の人に拡散されてしまうため、匿名だとしても悪口が一人歩きしてしまうリスクがあった。しかし、「tbh」ではコンテンツのバイラルではなく、質問に投票で答える手法を使うことでユーザーの利用方法を簡素化しただけでなく、投票された人にしか通知がいかない“バイラルしない”仕組みを採用した。
投票結果が公表されないため、個々人の評価や評判といったユーザーが最も知りたがりそうな結果内容は共有できない設定にしたわけだ。これによって、匿名アプリの最大の欠点であった、たった一言で誰かの心を大きく傷つけたり、身に覚えのない誹謗中傷の拡散を防いでいる。
「tbh」の登場によって、ようやく匿名アプリ市場が健全なユーザーコミュニティの育成手法を手にしたと言える。匿名アプリの最大の良さでもあったバイラルの仕組みを変え、取り扱うコンテンツ内容もこれまでとは全く逆のポジティブなものに絞った。社会的・モラル的にも市場から認められるアプリがようやく登場したと言えるだろう。
シンプルなコミュニケーションに絞ることで良質なコミュニティーを育むことに成功した「tbh」は、大量のコンテンツ投稿を推奨する代償としてフェイクニュースが広まってしまったFacebookにとっても、待ち望まれたアプリなのかもしれない。
Img : tbh, paz.ca(CC BY 2.0), After School