「かつて、重力から解放され、宇宙へと飛び出していったガガーリンのように。あらゆる制限から解放され、自由へと飛び出していく人が、これから劇的に増えるだろう。」
「Living Anywhere」のウェブサイトには、このようなコンセプト文が記載されている。孫泰蔵氏が社会に投げかける新しいコンセプト「Living Anywhere」は、世界中のどこでも自由に暮らせる世の中をつくるための考え方だ。
このコンセプトは、『新経済サミット2017』の『サステイナブルな未来のビジョン -サーキュラーエコノミーとLiving Anywhere-』と題したセッションにて、孫泰蔵氏と井上高志氏によって発表された。
孫泰蔵氏がLiving Anywhereを提唱する背景には、「テクノロジーによる人々の失業」という課題が存在する。
IoT、AI、ロボティクスのようなテクノロジーが急速に進化する中で、進化のスピードが早すぎることが原因となり、摩擦的な失業が起きている。失業対策のために、ワークシェアリングを導入し、1人当たりの労働時間を短くすることで、社会全体の雇用者数を増やそうとする取り組みをオランダやドイツなどのヨーロッパ諸国は行っている。
社会全体が大きく揺れ動く中で、私たちが進むべき道筋を、孫泰蔵氏は次のように語る。
孫泰蔵「労働時間が短くなれば、自ずと収入も減ってしまう。収入が減れば、人々は今の生活を維持できなくなり、人生の選択肢は狭まっていくでしょう。もし、収入だけではなく、支出も同時に減らせば、人々の生活水準は変わりません。人々の生活の中でも支出の大部分を占める住宅や、電気・水道・ガスなどのライフラインにイノベーションを起こしたいと考えています」
生活コストを下げるだけでは、人々の生活に大きな変化は生まれない。孫泰蔵氏はライフラインの領域でイノベーションを起こすことで、人々が自分の人生の選択肢を増やせるような社会を目指す、それがLiving Anywhereだ。
「Living Anywhere」の実現に貢献する様々なサービスやプロダクトたち
Living Anywhereのコンセプトを実現するためには、どのような障壁が存在するのか。
Living Anywhereを実現するためには、「ライフライン」「医療」「教育」「オフィス」の4つの分野でイノベーションを起こさなければいけない、と孫泰蔵氏は語る。この4つの分野で、持ち運びが可能になるようなサービスやプロダクトを提供するプレイヤーを一つひとつ紹介していこう。
ライフラインの中でも、通信はワイヤレス化が可能であったり、電気はオフグリッドで持ち運びがしやすかったりする中で、最も持ち運びが困難なのは「水」だ。科学誌『サイエンス・アドバンシズ』では、地球上で約40億人の人々が1年間のうち1カ月以上も、適切な真水の供給を得られずに生活していると報告されている。この人数は、世界人口の約66%に相当する。
そんな中、「水不足」という課題に挑戦するスタートアップが日本から出てきている。孫泰蔵氏も出資している、水再生システムを提供する日本のスタートアップ「HOTARU(ホタル)」に注目したい。
「HOTARU」は、持ち運びができるオフグリッドのシャワーシステムだ。独自のシステムで、シャワーで使った水から皮脂・汗・石鹸などの汚れを取り除き、綺麗な水に浄化する。浄化することで、20Lの水で50回のシャワーが浴びられる仕組みになっている。これは、4人家族が2週間で浴びるシャワーの量に相当するそうだ。このように「HOTARU」は、独自の洗浄システムを開発することで、「水の再利用」を可能にしている。
医療の分野では、米国カリフォルニア州に拠点を構える「Zipline(ジップライン)」が先進的な取り組みを行っている。同社は、救急救助を目的とした医療品の配達をドローンで行うスタートアップだ。現在、ルワンダ西部にある21か所の輸血施設に、ドローンを使って救命用血液を配達するサービスを展開している。「医療を持ち運ぶ」という点で注目したいサービスだ。
教育の分野では、10年以上前から「MOOCs(ムークス :Massive Open Online Courses)」と呼ばれるような、インターネットを使って誰もが無料で受講できるさまざまな専門分野の講義が登場している。「Coursera」「edX」のようなインターネット・サービスが代表例として挙げられる。通信環境とデバイスさえあれば、「教育」を受けることは場所に縛られずにできるようになっている。
「オフィスを持ち運ぶ」ことを考えたときに、リモートワークを行うノマドワーカーは既に一定数存在するだろう。「WeWork(ウィワーク)」のようなコワーキングスペースが、彼らの自由な働き方を支援している。移動しながら働くことを考えたときに、船がワーキングスペースとなり、船旅をしながら働く「Coboat(コボート)」や、同一料金で使用できるシェアハウスとワーキングスペースを世界各地で提供する「Roam(ローム)」などのサービスにも注目だ。
このように、「ライフライン」「医療」「教育」「オフィス」の「持ち運び」を可能にするようなサービスやプロダクトが登場している。
旅をしながら暮らし、働くライフスタイルの登場
場所に縛られずに暮らすことを、インフラの側面からサポートするサービスが登場する中で、人々の価値観やライフスタイルにも変化の兆しが現れている。
小さな家で、シンプルに、無駄なく生きようとする「タイニーハウス・ムーブメント」は注目したい動きのひとつだ。このムーブメントは、大量生産・大量消費社会に抗うカウンターカルチャーとして、リーマン・ショック後に急速に発展してきた。
最近では、キャンピングカーで旅をしながら暮らし、仕事をする「vanlife」というライフスタイルも注目されている。ラルフローレンのデザイナーとして働いていたフォスター・ハンティントン氏が、忙しい日々に嫌気が差し、家を捨てて必要最低限のものをキャンピングカーに詰め込み、旅をスタートさせたのがvanlifeの始まりだ。
フォスター氏は、Kickstarterを利用してお金を集め、自身のvanlifeを記録した『HOME IS WHERE YOU PARK IT』を出版する。フォスター氏が火付け役となり、vanlifeは世界中で流行の兆しを見せている。
日産が2016年に発表したコンセプトカー「e-NV200 WORKSPACe」も紹介したい。同社は、未来のワークスタイルに注目し、世界中のどこでも仕事ができる環境を思い描き、車を走るオフィスとしてデザインした。社内には、仕事をする上で欠かせない、PC、デスク、ワイヤレス充電器、オーディオ、冷蔵庫、コーヒーメーカーなどが備わっている。
このような事例から、移動しながら暮らす、働くことが、文化として定着の兆しを見せていると言えるのではないだろうか。
「Living Anywhere」のビジョンを実現するために
ライフラインや医療の領域でイノベーションが起きれば、人々が場所に縛られずに暮らし、働ける世界が訪れる。そのとき、社会はどのように変化するのか。
一箇所にとどまって暮らすのではなく、移動しながら暮らす本来の意味での「ノマド(遊牧民)」が増えていくことが考えられる。人口の流動性が高まれば、次なる成長地域を目指し、移動し続ける人々も出てくるかもしれない。そうなれば、次なる発展地域を発見することもしやすくなる。
人口の流動性が高まれば、都市への人口の集中も緩和されるだろう。人々がさまざまな地域で分散して暮らすようになれば、各地域が抱える人口減少などの課題も解決されやすくなる。そのような時代において「定住することの価値は何か」という問いを持つ必要が出てくるだろう。
ジャーナリストの藤代裕之氏は、同じ場所に暮らす「土の人」に対して、場所に縛られずどんな場所でも面白いことを生み出す人々のことを「風の人」と呼んだ。ライフハッカー[日本版] 編集長の米田智彦氏は、あちこちを飛び回ることで情報・アイディア・人を結びつける存在を「ポリネーター(受粉者)」と呼んだ。どこでも暮らせる人が増えることは、それだけ各地で新たなイノベーションが生まれる可能性が高まることにつながっていく。
Living Anywhereのコンセプトを実現する過程では、ライフライン、医療、教育、オフィス、住宅などの領域でさまざまなイノベーションが起きるはずだ。同時に生活に必要なコストも下がっていくだろう。「テクノロジーによって仕事が奪われる」と恐れるのではなく、「テクノロジーによって生活コストが下がり、自由を手にする」未来を想像したい。
Living Anywhereのコンセプトが現実になる日はまだ遠いかもしれない。しかし、定住しない人々が増えれば、社会構造は大きく変化する。場所に縛られずに暮らす世界を実現するようなサービスは、社会課題を解決し、ビジネス的にもスケールする事業になるだろう。
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