労働生産性の伸び悩みに直面する日本。日本生産性本部の最新のまとめによると、日本の労働生産性はOECD加盟国36カ国中20位という状況になっている。

この状況を打破する可能性があるとして近年注目を集めているのがAIだ。さまざまなメディアがAIの可能性を報じ、労働市場においてもAI人材需要が急速に高まっている。

画像認識、音声認識、自然言語処理、自動運転などAIの活用領域はさまざまあり、これらの技術を活用することによって事業コストの削減や事業スピードの加速を実現し、生産性を改善できると考えられている。

しかし、これまでAIの活用によって生産性が高まることを示す学術的研究はなく、これらは経験的な裏付けがない主張だった。実際、欧米においても、AIの活用が進んでいるものの、労働生産性が伸び悩んでおり、AIは労働生産性の向上には寄与しないと主張する悲観論者があらわれている。また、一部の専門家はこのことを「AI・生産性パラドックス」という言葉で表現している。

こうした状況の中、MITとワシントン大学の研究者らがこのほど発表した論文に大きな注目が集まっている。同論文は、米Eコマース大手eBayの取り引きデータを分析し、AI施策が同社の事業にどのような影響をもたらしたのかを評価。それによるとAIがビジネスにポジティブな影響を与えたことが示唆されたのだ。

eBayの機械翻訳サービスで、越境取引が10%増加

学術誌Management Scienceで2019年4月に公開されたこの論文は、eBayが機械翻訳サービスを導入した2014年のデータを使い、翻訳サービスの導入前と導入後の変化を分析。機械翻訳の導入によって、越境取り引きが増加し、全体の取引量が10.9%増加したことが明らかになった。

当時のeBayは200カ国以上で事業を展開しており、eBayプラットフォーム上での取引額は140億ドル(約1兆5,000億円)に達していた。この規模を誇る中での10%以上の増加は無視できないものであるのは想像に難くない。

また、これまでの研究でeBay上での取り引きにおいて、売り手と買い手の物理的距離が縮まれば縮まるほど取引コストが下がることが判明していたが、今回の論文では、機械翻訳サービスの導入によって物理的距離を縮めるのと同様の効果をもたらすことが示唆された。翻訳サービスの導入によって、物理的距離が26%縮小したのと同等のコスト削減効果が確認されたという。

研究者らは、取引阻害要因はさまざまあるものの「言語の壁」はその中でも特に大きな要因になっている可能性があると指摘している。

近年ではGoogle翻訳の質が向上するなど、言語の壁は低くなっており、eBayだけでなく他のプラットフォームでも越境取引が増加していることが考えられる。


越境ビジネスの可能性を開く機械翻訳

今回の論文は、機械翻訳サービスの効果に焦点が当てられていたが、eBayは多方面でAI導入を促進しており、今後は他の側面でもAIの効果が実証される可能性もあるだろう。たとえば、買い手向けにはAIを活用したパーソナライゼーションや画像検索、売り手向けには価格最適化ツールなどが導入されている。

ベンチャービートがeBayのAI施策部門関係者の話として伝えたところでは、同社のAI施策は四半期毎に10億ドル以上の売上増をもたらしているという。

AIの効果が拡散するには20〜30年必要? 過去の事例が示すテクノロジーの普及速度

eBayのデータは、AI活用が生産性向上や売上増につながる可能性を示唆するものであるが、その効果がより広い範囲に拡散するまで多少の時間を要することは念頭に置いておいた方がよいかもしれない。

上記論文の著者の1人であるMITのエリック・ブラインジョルフソン氏は、2018年1月に発表した「AI・生産性パラドックス」に関する論文の中で、テクノロジーの活用が進み、その効果が広く社会に浸透するまで30年ほど要する可能性があることを指摘している。

この主張は過去のテクノロジー活用とその効果の広がりから導き出されたもの。たとえば、Eコマースに関するテクノロジーが登場したのは1990年代のことだが、それが社会一般に普及するまで20年以上要している。

Eコマースが一般化するには、サプライチェーンや物流システム、さらにはビジネスモデルや消費者の意識・行動変化など、全体的な変化が必要となるからだ。1990年代、インターネットとパソコンの普及によって、Eコマースへの期待は非常に大きなものになっていたが、1999年のリテール売上高に占めるEコマースの割合は0.2%でしかなかった。


Eコマース関連のインフラ&テクノロジー

また19世紀末頃に進んだ製造工場の電動化でも、工場のデザイン変更などさまざまなプロセスが必要となり、生産性向上などその効果が数字となってあらわれるまで30年かかったという研究もある。

現在eBayのように事業のさまざまな側面でAIを本格導入する企業は少ないが、試験的導入や導入を検討する企業は増えているといわれている。AIの効果が社会経済全体に目に見える形であらわれるまでしばらく時間を要するかもしれないが、工場の電動化やEコマースの事例が示すように、非常に大きな変化をもたらすことは間違いないはずだ。

文:細谷元(Livit